「原爆堂と白井晟一」展からの招待状

 今年6月に開かれる「原爆堂と白井晟一」展の趣意書です。

 

 

   INVITATION  to  TEMPLE  ATOMIC  CATASTROPHES

 

 

 野外に出て無限な蒼穹を仰ぐとほっとする。

 これが理想の色かと思う。生きている本当

 の理由が、身内に湧いてくるのである。自

 然の叡智が人間の自由な生命をあらゆる強

 制から解きほぐしてくれるからだ。

 

 白井晟一のエセーの「めし」の冒頭です。この2年前かれは「原爆堂 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES」のプロジェクトに取り組み、広島、長崎の市民を襲った原爆の残虐、荒涼とした廃墟の世界と向き合っていました。「無限な蒼穹」が粉々に砕け落ちた世界。「自然の叡智」に反して人間が創り出したもの、その爆発とともにアレントの言う「現代」の世界がはじまったのでした

 原爆の威力をさらに高める研究と開発が冷戦下の米英ソでしのぎを削っていたさなか、1954年の3月ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験で、日本の漁船「第五福竜丸」が被曝し乗組員23人全員が急性放射能症を発症、無線長は半年後に亡くなりました。核実験によるマグロや海産物の放射能汚染、放射能雨の検証が行われ、3000万を越える署名運動は大気圏内と海洋での核実験禁止にようやく向かわせます。

 この状況の中で映画や文学、写真や漫画、美術や音楽などのさまざまの分野で原爆や核を問う作品が改めて生まれ始めました。映画では「ゴジラ(本田猪四郎)」、「生きものの記録(黒澤明)」、「第五福竜丸(新藤兼人)」、「二十四時間の情事(アラン・レネ)」などがよく知られています。建築界からは.核の問題と対峙する表現は唯一「原爆堂」計画にとどまり、丸木夫妻の「原爆の図」美術館への提案という形で1955年4月に新聞等に発表され広く知られましたが建設には至らず、白井は8月には機能を美術館に限定しない形で国際社会に向け英文のパンフレットを作成します。

 

 2011年3月、没後30年をまじかに控え「白井晟一 精神と空間」展が「原爆堂」計画を中心に東京で開催されていました。11日、東北地方太平洋岸を大地震と津波が襲い、その中で福島の原子力発電所がレベル7の大事故を発生。核に潜在する脅威が現実のものとなって目の前に突きつけられ、「原爆堂」に託されていたメッセージが60年を経ていっそう切実な意味合いをもって届けられることになってしまいました。展覧会で原爆堂計画を見た作家福永信氏のコメントが印象に残ります。これは「過去のかなわなかった建築ではなく、未来の建築として映る」

 「原爆堂」計画は一枚の精細に描かれたパースと数点の基本図面及び設計者の短いコメントで構成されています。白井の建築家としての活動、エセーを含むさまざまな表現とそれらの背景となった時代に目を向けながら計画の内容と意図を、少しでも全体的かつ正確に把握するための作業を続けています。

 唯一の被爆国、核の被害者であったこの国とわれわれは、フクシマの原発事故を起こしたことによって自国の市民の犠牲ばかりでなく、海洋と大気に放射能を拡散し核の加害者の立場を余儀なくされました。「原爆堂」の建設に向かう活動を促したのはそのことでした。再びヒバクシャを生んではならない、自分たちと同じような凄惨な経験をいかなる人々にもさせてはならない、そうしたヒバクシャを中心とする悲願と活動をとおして育てられた暗黙の了解は、戦後形成された国民的合意の一つであり、日本という国と人のアイデンティティーを形成してきたものではなかったのだろうか。フクシマはその合意とアイデンティティーを破壊するものでした。

 核による脅威を一気に取り払う方法があるのであれば言うことはありませんが、世界を破壊することのできる脅威から解放される道は遥かに遠いというのが多くの人の共有する実感でしょう。そのような困難から目をそらすことなく、人間と核の問題を正視し背負い続けることの重要性から、さまざまな形で生まれまた隠蔽され続けているヒバクシャに対する医療とケアは国境を越えた国際社会の責務であると考え、「原爆堂」を中心にそのための施設と機構の実現を模索しています。

 

 本展は新たに製作したCGムービーを中心に「原爆堂」計画を改めて紹介し広く知っていただくことを願って企画されたものです。

 

                                           主催 原爆堂建設委員会

                                           協力  白井晟一研究所

16:24 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
保坂陽一郎先生を偲んで

                             保坂陽一郎先生を偲んで

 

 保坂氏はまだ東大の学生だった時に、委員長を務めていた学生会議での講演を依頼に来られたのがきっかけで父との交流が始まったと聞いている。そのころ前後して同じような用件で原弘氏や黒川紀章氏が父を訪ねられている。僕がきちんと保坂氏にお会いしたのはすでに1980年代になってからで、静岡の石水館−静岡市立芹沢げ霹術館が竣工したときに父に言われてご案内した時だったと思う。確かそのあと市内で鰻の蒲焼きをご一緒した。余談だけれども父は完成した石水館に特別の思い入れがあったようで、日本女子大の小川信子氏や早稲田大学の池原義朗氏に若い人たちに見せてあげてほしいと電話をしている。その中に藤井正一郎氏や保坂氏もおられた。現場に残って後の処理をしていた私がそのたびにご案内することになった。池原氏はその時のことを虚白庵とあわせてエセー集「光跡」に書かれている。保坂氏は私がお願いして『白井晟一研究』の犬如嵎匹魍く 二つの美術館をめぐって」を寄稿していただいた。

 父が亡くなって虚白庵にとどまったのは私一人だったが、もともと付き合いも悪く愛想もないということもあり、生前父と交流のあった方々とお付き合いすることもほとんどなかった。例外が「白井晟一全集」をご一緒に作ったが完成を待たずに亡くなられてしまった宮嶋圀夫氏と、保坂氏だけだった。一人で仕事を始めて間もなく行き当たったトラブルで裁判の原告に立たざるをえなくなった時にご相談し、建築専門の法律家をを紹介してくださったのが保坂氏だった。その後はお会いする機会はなかったが、退官され設計事務所を閉められてからも、著作や作品集をお送りくださったり、一言添えた年賀状を欠かさずいただいていた。先般製作して出版したシリーズ「白井晟一の建築」にもいつもコメントをいただいた。

 建築界との付き合いもないせいか、一昨年2016年の暮れに亡くなられていたことを知らずに今年も年賀状を差し上げていた。遅ればせながら、生前変わらずいただいたご厚志に心からお礼申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

                                                    白井磨

18:54 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
親和銀行大波止支店の建築について

 白井晟一が1963年に竣工させた長崎の親和銀行大波止支店の建築が、経営の合併統合の流れの中で存続が危ぶまれているのだという。2010−11年にもそれに類する事情で閉鎖解体の話が伝わり、それに関連してか当時の頭取が丁度開催されていた高崎と東京の「白井晟一展」を訪ねて来られるという一幕もあった。そんなことがあり開催中の「白井晟一展」を長崎に巡回して存続への足掛かりに繋げたいと長崎の美術館とも交渉したが、急のことであり不調に終わった。

 大波止支店の建築は親和銀行の初代頭取北村徳太郎氏がすでに計画されていた佐世保本店の設計を白井に委託する前に、白井の力をいわば見定めようと設計を発注したものであったらしい。この建設の際にはバンキングホールの床のカーペットをめぐり銀行と白井の間でやりとりがあり、地域的に長靴履きの漁業関係者が多くカーペットはなじまないし贅沢だいう銀行に対して白井は、維持管理に手間がかかるのは分かるがそれだけ汚れたり、そのため摩耗しても、それだけ顧客に銀行が利用されたということであり、労働が終わって1日の収益を預けにくる銀行がホットできる空間を提供しそのため多少管理の費用が増えてもそれが顧客に対するサービスになるのではないか、カーペットはホール内で歩き回る雑音も減らし静かな空間を提供できると話して、銀行もなっとくしたという逸話が残っている。その後大波止支店の顧客数は大きく伸びたと聞いた。

 以下は1984年、白井の没後1年たって刊行された『白井晟一研究 后戮坊悩椶靴神枴検屮ぅ蹈法爾陵夕亜´掘廚蚤臟隼濟拇垢某┐譴唇貔瓩任△襦

 

 「長崎の親和銀行大波止支店は白井がかれの設計したものの中で最も好んだ建築であった。北木産の鑿取仕上げの施された御影石張りの、2階分高さのファサードの壁は湾曲しており、それを左右に伸びるギャラリーのストレートなラインが囲む静かで優しいたたずまいの建築である。硬質で強いテンションを示す「原爆堂計画」とは対照的である。それにもかかわらず、私は原爆堂と繋がる建築的意想を感ぜざるを得ない。それは一つのモティーフの雌雄を見ているようなのだ。内部のバンキングホールはファサードをそのまま反映して壁は弧を描き、穏やかな採光を受けて吹き抜けの静かな空間が広がる。この建築には内部も外観にも地方金融機関の支店という機能的性格を持ちながら、かつて白井が雪国の人々の雪と戦う生活に直面して示したような、土地の人々に対する深い同情と敬愛の祈りにも似た姿を見て取ることが出来る。

 原爆堂計画の作者としてのかれが、町の被爆の歴史に対するひそかな思い入れをその建築的モチーフにだぶらせていたであろうことは、むしろそのことを抜きにこの建築を読み取るほうが難しいだろう。建物を囲むギャラリーは祈りの列を優しく守り覆うにふさわしく、浅い池に浮かぶようなファサードも内部のホールも、深く静謐な慰霊の魂を包む空間に似つかわしい。」

 

17:15 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
敗戦後日本と白井晟一の伝統論

 建築界の伝統論争の中で白井晟一の「縄文的なるもの」が掲載されたのは1956年の『新建築』7月号だったが、かれはその5年前に国学院の講演で「縄文的なるもの」の前段ともいえる伝統論を展開している。(「華道と建築 日本建築の伝統」)これは1945年の日本の敗戦、全面降伏による連合国、実質的には米軍の占領が終わる前の年だった。その講演の中で白井は伊勢神宮をとりあげて「西洋の古典建築のように合理の要求を満足させるために素樸な意志が変質されたものではない」ことを指摘し、それが「日本的創造精神の原理」を示しており、そのような原理にたいする「自覚と矜持を血肉の中にもっているならば、あたかも原理も伝統ももたぬ亡国の民のように、不安定な観念の動きをたちどころに模倣して不健全なエンスージアズムに沈潜するといったような不手際はおかさないはずであると考えるのであります。」と述べている。

 加藤典洋氏の『敗者の想像力』(集英社新書 2017)を読んでいて、この時期が漠然と戦後というだけでなく米軍の占領下にあって、加藤氏が日本ではなぜ描かれるべき「被占領の文学」が少ないのかと問うている、そのような時期であり、そのことを注視してこなかったことに気が付いた。白井の「不健全なエンスージアズム」とはまさにその時期の社会の心的な状況、欧米の支配と論理に屈服し、モダニズムのような文明の先進国の近代を「たちどころ」の模倣という形で取り入れてしまう傾向への批判であったことが理解できる。それから5年後の「縄文的なるもの」で伊豆韮山の江川邸の遺構に「友よ、そんな調子でなく、もっと強い調子で」と語らせるのも、敗戦と占領により「原理も伝統ももたぬ亡国の民」のように見えた戦後文化を鼓舞しエールをおくるものだったことが見えてくる。

 「縄文的なるもの」の前の号(『新建築』)では丹下健三が「現代建築の創造と日本建築の伝統」というタイトルで伝統を論じているが、かれはここでは伊勢神宮を「専制的な国家が生まれ出ようとする社会変革のモニュメント」であったとし「伊勢の鬱蒼とした森」はアニミズムの形象化だったと述べ、あるいは日本の伝統的な美意識は「現実認識における情意性や、自然認識における消極性といった弱い姿勢からきている」ことを強調し、おおむね日本的伝統に批判的な姿勢をとっている。また、戦時中の「大東亜建設記念営造計画」コンペの際の「近代の超克」的なコメントとは逆に、ヨーロッパ文明の「自然と対決し」「自然を克服しようとする」強い意志を評価した。この論考に表れている限りの丹下の伝統論と白井の伝統論は、同じ日本の戦争と敗戦、そして占領という同時代を生きながら対照的である。問題なのはそれが、日本が「対米従属のもとで主権もなく、いわばがんじがらめに縛られたままだという〈事実〉」(前掲『敗者の想像力』)を引きずる状況がつづく中で行われたものであったことである。

 

22:57 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
メモ 「近代の超克」批判の歴史

 米谷匡史氏の竹内好の「近代に超克」をめぐる論考(カッコ内)から 

 そこで唱えられた「近代の超克」と「世界史の哲学」は「〈一五年戦争〉期、とくに〈大東亜戦争〉期の日本の動向を、近代をのりこえ、アジアを西洋の植民地支配から解放する先駆けたるべきものとして整除する言説」だった。しかし問題はそのような言説、理念が帝国主義日本の侵略や植民地政策の現実と表裏をなしていることだった。戦後になって当然この矛盾する表裏が対外戦略、植民地支配に対する批判と「アジアを植民地支配から解放するという戦争目的の擁護論」となって対立反発が繰り返された。(「世界史の哲学の帰結 戦中から戦後へ 『現代思想』1995.01.)  

 

  磯前順一氏の「近代の超克」論から

 竹内好の「近代の超克」における日本の知識人に対する最大の批判点は「アジア太平洋戦争の敗北によって、日本はアジアの植民地を失ったわけだが、同時にみずからを西洋の一部として見なすことで、自分がアジアの一員であること、そして西洋との葛藤を抱えて存在してきたことをも忘れて」「アジアと西洋の間に存在したアポリアを忘却してしまったこと」だったと指摘する。言い換えれば「自分たちと西洋の近代主義者を同一視することで、自らの身体や感情をどのように扱ったらよいかという問題を等閑視」してしまったというものだった。(『閾の思考』法政大学出版局 2013.08.)

 

 

17:47 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
メモ ヘテロトピア=異他なる空間

  新たな白井晟一論へのツールとしての「ヘテロトピア」

 

「言語空間であれ現実の空間であれ、広く自明のものとされている共通の修辞的基盤や統語的基盤、あるいは空間を成立させる整序性に、ヘテロトピアは亀裂を入れ、その範例的な序列を突き崩し、統辞法をもつれさせ、混乱させる機能をもっている点だ。

 その意味でヘテロトピアとは、「社会の制度そのものの中で構成された反=場所」ということができる。みずからが属する文化の内側に見いだしうる現実の場所を、同時に表象し=異議を申し立て=反転する、そのような空間である。それは社会制度や文化の内部にありながら外部性を包含し、他のあらゆる場所から絶対的に異他なる空間として生成されるのだ。

 さしあたりヘテロトピアを以上のように定義するとき、「異他なる空間」(ヘテロトピア)に向かおうとする力学は、テクノクラシーによって構成された言語・社会・空間システムに不安を与えるものにならざるをえない。(後略)」  

 

 

  立教大学公開シンポジウム「〈異他なる空間(ヘテロトピア)〉へ」における林みどり氏のシンポジウム趣旨からの抜粋

 

 

 

16:59 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 后仝鋲箸米刺検 


               后仝鋲箸米刺

 M.アレクサンダーは「塔の思想」の中で、ギリシャ建築がB.C.4世紀に及んでも原則的に塔を持たなかったことを指摘して、ギリシャ芸術は「塔を建設しようという一切の内的衝動を欠いている」と述べた。それは人間をすべての尺度とする「法則と制限の芸術」であり、人間が「自己自身から出て、それを乗り越え、そうすることによって無限の空間と結合しようとする」塔建築とは互いに排除しあうものだと考えた。

白井晟一は既に述べたように、ギリシャ、ローマの文化や美術への関心がベースにあった。善照寺は仏教伽藍だがギリシャ神殿に通じる造形的性格を示している。近代においては塔には、古典的な調和やバランスを重視する古典的な美意識を乗り越えようとするバロック的な美意識や精神構造に通じるものがある。塔は白井においてもバロック的な境域の中で当場してきたものではなかったろうか。

ノアビルは三つの造形で構成された複合体だが、全体として示しているのは、結界にそそりたつ塔のイメージである。1950年代の浅草善照寺のベースになっている古典的な美意識とは明らかに異質であり、その変化はすでに述べたように、日本の社会と文化に対する認識の変移と関わったものでもあったと考えられる。

アレクサンダーは又、塔というものを次のように言う。

「塔は孤独な道標(みちしるべ)のように、人に自信と慰安を与える仲介者のように、雄々しく誇らかに聳え立つ。それは、泡立つ大洋の中の帆柱のように、全てを呑み込んでしまう形の無い空間の脅威に対して、確実な定点を示すのである。」

白井がノアビルを都市の道標と言ったとき、かれにはこれと通じるイメージがあったのではなかったろうか。

 

最近になって原爆堂計画を進めていた1954年当時、白井には原爆堂のもう一つのイメージのあったことを五十嵐太郎氏の『日本建築入門』で知った。それは川添登氏が伝えていたもので、白井の机には直方体の上に円筒の載った別案があったのだという。円と四角の合体という点では同じだが、基壇に円筒を載せるというフォルムの構成は、親和銀行の挟の建築と何よりもノアビルに通じている。つまり注目すべきはノアビルの造形の原案はすでにこの時あったということであり、それが「原爆堂」という核を主題とした建築の意想から生まれていたものだったことである。「もう一つの原爆堂」は1954年には円と四角の幾何学的な複合であったものが、斫りレンガで積み上げられたヨーロッパ中世の城巖を想起させる基壇と、円筒ではなく楕円の金属製の塔へと展開しノアビルになったのだった。

 

「原爆堂」は矛盾対立を止揚しようとするエネルギーをはらんで、大きくせりだしたキャンティレバーの強いテンションを建築化したものだったが、1974年の「もう一つの原爆堂」は弁証法的止揚に希望を求めるのではなく、矛盾対立ををむしろエネルギーとして内包する意思と力が託されているように見えるのである。

 

 

 

                      2017年8月改稿  白井磨

17:12 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 検〔圭發療

                      検〔圭發療

 楕円の思考は単純な二元論とも相対主義とも異なる。中心が二つということは言葉の上でそれ自体すでに矛盾であり、最初から対立が含まれている。二つの中心(焦点)の近接離反に応じて、楕円の形は痩せたり太ったりするが楕円であることは保たれ他の形へと移行することはない。二つの中心の関係は解釈学的循環の中で捉え直された主観と客観、個と普遍などの関係に近いかもしれない。観念論における主観と客観や個と普遍の対立関係は、解釈学的循環のなかでは単純な対立を失い、運動する一つの思考世界を成立させる。


楕円の思考は多元主義と対立はしないが、二つの中心の相関関係から生まれる運動が欠かせない。この国におけるイデオロギーのアクチュアリティーや有効性に見切りをつけた白井が向かったのは、親和銀行本店、特に第三期の懐霄館とノアビルという建築表現に示された世界だった。それらの建築と彼の思想を読み解く鍵は、バロックと楕円の思想にあると思われる。

「人間というものは矛盾の塊なんだ」という言葉を何度白井から聞いただろう。白井晟一という建築家は常に言葉の前に人間という言葉をつけて考えていたように思う。人間の文明、人間の科学、人間の経済、人間の社会、そして人間の建築など。近代主義的合理主義、科学主義、技術主義、生産主義等の流れの中で、いつの間にか「人間の」という主体が抜け落ち、それぞれが自立したものとしてシステムを形成した。そういう世界を目の当たりにしながらも、人間の本質を矛盾に見た白井が、建築の論理的方法論や大系を構築することに関心を持つことがなかったのは当然だった。建築家の発想、施工会社の営利主義、建築の工業生産化、クライアントの所有エゴイズム、時代遅れの建築法制、一般社会の建築に対する無理解、無関心、そういったものが合わさって現実の建築が成立しているのを見れば、白井にとって、建築そのものが矛盾の塊であったに違いない。ノアビルは彼の建築作品の中でもとりわけ多くの矛盾を抱えたケースだったように思う。

原爆堂は対照的な二つの形態を一つの造形に止揚しようとするものだったが、ノアビルは楕円のシャフトとレンガの量塊的な基壇に加えて、シャフトに寄り添うエレベーター棟の三つの要素から成る。そして三つのブロックはそれぞれ独立した、できるだけ異質なものでなければならなかった。エレベーター棟は最初打ち放しのコンクリートで考えられていたが、構造上の様々な配慮から、コンクリートのように見えるアルミのダイカストが用いられた。

親和銀行佐世保本店の建築は三つの建築の複合体であり、それも最初に全体の計画や構想があったわけではなく、継ぎ足しの上にまた継ぎ足すという経緯を辿った。白井が親和銀行の建築について語る時に、移り替わる時代と支配者の文化によって改造に改造の加えられたハギア・ソフィアになぞらえたのはそのためである。そして何よりも苦慮熟考しなければならなかったのは、原爆堂を彷彿させる石のマッシブな鬼の建築と、内側に3階吹き抜けのバンキングホールを持つブロンズのパネルで構成された挟の建築を如何に繋ぐかだった、と私に話したことがある。そうして出来たのが二つの建築とは異質な全面ガラス張りの小さな部屋だった。

ノアビルの場合は懐霄館とは異なり、設計者自身が三つの異質なものの複合という三位一体の意想でまとめあげたものだったから、そこにエネルギーの蓄積を計算することが出来た。斜線規制をかいくぐるように、敷地一杯の基壇の上に楕円のシャフトを乗せた建築は、さらに打ち放しコンクリート様の無機質なもう一つのシャフトを寄り添わせることによって完成した。その無機質なシャフトはこの建築の各層を繋ぐ器官としての機能を担うものだった。

17:08 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 掘(弧析世箸靴討侶築

             掘(弧析世箸靴討侶築                       

白井晟一が設計した中で「ノアビル」ほど異例ずくめの建築はなかったのではないだろうか。クライアントは竹中工務店に発注したものだったが、設計は誰か建築家にという条件をつけた。竹中工務店ではどのような討議の結果であったのか解らないが、当時白井の設計する親和銀行本店も竹中工務店が施工していたということもあったのであろう、担当していた設計部長のKさんと副部長のAさんが白井を訪れる。Aさんから聞いた話だが、この時初対面だったAさんが「竹中工務店のAです」と自己紹介すると、白井は「順序が違うだろう。先ず自分の名前を言ってそれから所属する会社を言うものだ」と叱責された、という。

 

クライアントから直接ではなく、ゼネコンからの依頼というのも異例なことだった。さらには基本設計が終わり、暫くした段階で今度は白井を外して後は設計も竹中で進めてほしいとクライアントが要請する。それに対して白井は基本設計だけを売り渡すことはない。建築をつくる同じ仲間として君たちももそのような理不尽に屈するべきではない。大変残念だが共にこの仕事はなかったことにしよう、とKさんとAさんに話したという。

当時ベルリンに留学していた僕のところを訪れ2週間ほど滞在したのは、そのような経緯で中断していた時期だった。かれのこの時ほど消沈している姿は見たことがなかったほどで、ノアビルにいかに執着していたのかが推測できた。かれが帰国して間もなく、KさんとAさんの努力で再開されたのだが、内部の設計は白井の指導のもとで竹中工務店が進めた。そうしたことがあって、完成したときは、構想・白井晟一、制作・竹中工務店というこれも異例な形で発表された。かれは常々、日本の「現代」建築は外側ばかり頑張って、中のお粗末なものが多いと批判していたくらいで、外観と内部は一体のものとしてとり組むのが常だったから、そのような信条から外れてまでノアビルの建設にかかわり続けた執着は白井の建築家としての活動の中では特異なケースだった。

このような経緯を振り返ると、ノアビルの場合、その形態、外観への思い入れの強さが特別であったように思われる。それは先ごろ壊された親和銀行三原橋支店の建築と並ぶかれの数少ない都市の建築の一つだが、白井の都市の建築に対する考え方や想念を示す貴重な遺構である。

ノアビルは白井の文明論が直接示されたものとしても貴重である。そのことによっても「原爆堂」と通底しているように思う。原爆堂は核を手にした文明に対する批判と認識を前提としている。ノアビルは都市全体へのコンセプトの欠落した雑獏さと均質性によって支配された東京という都市を対照化する建築として、その只中で都市の道標となることを志向した建築と言える。岡崎乾二郎氏は原爆堂をSF的と評したが、ノアビルはさらにSF的と言えるかもしれない。ノアビルの視線が向かうのは、東京という都市を越えて、茫漠とした宇宙の景色ではないのかという空想を誘う建築のようにも見える。

その建築が二つの中心から成る楕円という形態をとることになったのは、弁証法的な展開に白井がアクチュアリティーを認めることが出来なくなった境域を示すものではなかっただろうか。

16:56 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 供 ̄澆了彖曚搬扮澆了彖

              供 ̄澆了彖曚搬扮澆了彖

 円は一つの中心で成り立つ調和と統一の象徴のような図形である。その中心が二つに分裂して、二つの焦点から成り立っているのが楕円というわけだが、楕円の二つの焦点が限りなく接近してついに一つになると円が生まれるという言い方も出来る。水の波紋は同心円で広がるが、惑星の軌道は楕円を描く。どちらが先か、あるいはより本質的かという議論には意味がないだろう。

白井晟一の原爆堂計画は、円の思想構造を持っていたのではないかと思われる。世界大戦があり、広島、長崎に原爆が投下され、第五福竜丸の被ばくという厳しい現実があってなお、原爆堂の造形は調和と統一の理想主義を捨てていないように見える。しかしそれから10年余りして、原広司氏のインタビューに応えた「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけるのが遅かった」という言葉は、日本という国の文化がイデオロギーではどうにもならないという彼の自省と認識を示したものと捉えられる。初期の白井の言説にもしばしば現れる「弁証法」とは、相反するものを一つの調和に導こうとするある種のイデオロギーにとっては有効なアイテムと考えられていたものである。原爆堂の造形の際立った性格の一つと思われる、対照的な形態の弁証法的止揚へのこだわりは、原爆堂に至るまでの白井の思考を捉える上での手掛かりになる。

白井はニヒリズムやアナーキズムとは無縁であった。強いて言えば人間を信ずることを捨てることのないイデアリストだったと私は考えている。2010〜2011年の「白井晟一展」を通じてもよく知られるようになった、前川國男氏の白井への追悼文、「この国の闇を見据える同行者は居なくなった」という慨嘆は、戦後の日本の近代主義建築のリードオフマンであった前川が、近代主義を相対化していた白井と思想や歴史的役割を超えてともに見ていた闇を示している。それは白井が果たして闇と呼ぶものであったのかどうかは分からないのだが。

望むべき世界を円と見るか、楕円と見るかで思想は異なっ針路をとることになる。イデオロギーが日本の社会や文化の形成に力とはならないという認識が向かったのは楕円の思考とも呼べるものではなかったか。

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