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 ゴジラと原爆堂 加藤典洋氏の白井晟一論から 

75年目の終戦記念日を迎えて、『白井晟一の原爆堂・四つの対話』(2018年 晶文社)の中で加藤典洋氏が語られた一節をご紹介します。

 

 この前の戦争では310万人が日本で亡くなりました。ということは、3000万から4000万もの人が自分の身近な人間に死なれているということです。当時日本の人口は7000万人だったので、ほとんど半数がそういう目に遭っていたことになります。自分の身近な人に死なれて、それも戦争なんかで死なれたら、その後の人生はもうない、そう思います。とはいえ、その苦しい体験から生まれる無念は生きている限り、その生き残った人を動かします。白井晟一はそういうものをちゃんと受け止めることができる人間だった。またそういう建築家でもあったと思います。

 それが、なぜ原爆という人類史的な惨禍を経験した社会から、それを受け止めた建築計画が、かれ以外からは出てこなかったのか、ということのもう一つの答えでしょう。

 白井晟一は、そういう意味では日本の戦争を建築家として背負おうとしたのだとも言えます。ぼくがこの間よく言及してきたゴジラは、1954年11月の封切り(シリーズ第一作)ですから、ほとんど白井の「原爆堂計画」と同時期に生まれています。ぼくの解釈は、ゴジラには日本の戦争の死者の無念さが凝集されている、というものですが、その解釈に立てば、ゴジラが、なぜ復興なった日本に南太平洋からやってくるのか、という問いの答えは、あれは帰ってくるのだ、ということになります。ぼくはゴジラについて書いた文章の一つに、もし自分につくらせてくれたら、次のゴジラには靖国神社を破壊させる、と書いたことがあるのですが、ゴジラの問題は、戦争の死者たちにとって、いまの日本には、本当に帰ってくる場所がない、ということだと思うのです。

 どこに帰ってくればよいのか。かれらを受け入れる場所は、どれくらい広くて深くなければならないか。「原爆堂」はTEMPLE  ATOMIC  CATASTROPHES  なんですね。テンプル、お寺、墓所でもある。ですから、戦争が手がかりだという磨さんの意見には僕も同意できます。

 

 

13:55 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | -
原爆堂建設への趣意書

広島、長崎の被暴と終戦から75年目を迎えて(2018年の原爆堂展の趣意書の再アップです)

 

   

 INVITATION  to  TEMPLE  ATOMIC  CATASTROPHES

 

 

 野外に出て無限な蒼穹を仰ぐとほっとする。

 これが理想の色かと思う。生きている本当

 の理由が、身内に湧いてくるのである。自

 然の叡智が人間の自由な生命をあらゆる強

 制から解きほぐしてくれるからだ。

 

 白井晟一のエセーの「めし」の冒頭です。この2年前かれは「原爆堂 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES」のプロジェクトに取り組み、広島、長崎の市民を襲った原爆の残虐、荒涼とした廃墟の世界と向き合っていました。「無限な蒼穹」が粉々に砕け落ちた世界。「自然の叡智」に反して人間が創り出したもの、その爆発とともにアレントの言う「現代」の世界がはじまったのでした

 原爆の威力をさらに高める研究と開発が冷戦下の米英ソでしのぎを削っていたさなか、1954年の3月ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験で、日本の漁船「第五福竜丸」が被曝し乗組員23人全員が急性放射能症を発症、無線長は半年後に亡くなりました。核実験によるマグロや海産物の放射能汚染、放射能雨の検証が行われ、3000万を越える署名運動は大気圏内と海洋での核実験禁止にようやく向かわせます。

 この状況の中で映画や文学、写真や漫画、美術や音楽などのさまざまの分野で原爆や核を問う作品が改めて生まれ始めました。映画では「ゴジラ(本田猪四郎)」、「生きものの記録(黒澤明)」、「第五福竜丸(新藤兼人)」、「二十四時間の情事(アラン・レネ)」などがよく知られています。建築界からは.核の問題と対峙する表現は唯一「原爆堂」計画にとどまり、丸木夫妻の「原爆の図」美術館への提案という形で1955年4月に新聞等に発表され広く知られましたが建設には至らず、白井は8月には機能を美術館に限定しない形で国際社会に向け英文のパンフレットを作成します。


       

 2011年3月、没後30年をまじかに控え「白井晟一 精神と空間」展が「原爆堂」計画を中心に東京で開催されていました。11日、東北地方太平洋岸を大地震と津波が襲い、その中で福島の原子力発電所がレベル7の大事故を発生。核に潜在する脅威が現実のものとなって目の前に突きつけられ、「原爆堂」に託されていたメッセージが60年を経ていっそう切実な意味合いをもって届けられることになってしまいました。展覧会で原爆堂計画を見た作家福永信氏のコメントが印象に残ります。これは「過去のかなわなかった建築ではなく、未来の建築として映る」

 「原爆堂」計画は一枚の精細に描かれたパースと数点の基本図面及び設計者の短いコメントで構成されています。白井の建築家としての活動、エセーを含むさまざまな表現とそれらの背景となった時代に目を向けながら計画の内容と意図を、少しでも全体的かつ正確に把握するための作業を続けています。

 唯一の被爆国、核の被害者であったこの国とわれわれは、フクシマの原発事故を起こしたことによって自国の市民の犠牲ばかりでなく、海洋と大気に放射能を拡散し核の加害者の立場を余儀なくされました。「原爆堂」の建設に向かう活動を促したのはそのことでした。再びヒバクシャを生んではならない、自分たちと同じような凄惨な経験をいかなる人々にもさせてはならない、そうしたヒバクシャを中心とする悲願と活動をとおして育てられた暗黙の了解は、戦後形成された国民的合意の一つであり、日本という国と人のアイデンティティーを形成してきたものではなかったのだろうか。フクシマはその合意とアイデンティティーを破壊するものでした。

 核による脅威を一気に取り払う方法があるのであれば言うことはありませんが、世界を破壊することのできる脅威から解放される道は遥かに遠いというのが多くの人の共有する実感でしょう。そのような困難から目をそらすことなく、人間と核の問題を正視し背負い続けることの重要性から、さまざまな形で生まれまた隠蔽され続けているヒバクシャに対する医療とケアは国境を越えた国際社会の責務であると考え、「原爆堂」を中心にそのための施設と機構の実現を模索しています。

                                                   原爆堂建設委員会

                                                   白井晟一研究所

 

 


                                            

14:13 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | -
「白井晟一の戦後と原爆堂構想」第5章から

「原爆の日」を迎えて

                          5

 

 「豆腐」に続けてその翌月同じ『リビングデザイン』誌に発表された「めし」は次のようなフレーズで始まります。

 

「野外に出て無限な蒼穹を仰ぐとほっとする。これが理想の色かと思う。生きている本当の理由が、身内に湧いてくるのである。自然の叡智が人間の自由な生命をあらゆる強制から解きほぐしてくれるからだ」

 

 「豆腐」で終わらず「めし」が論じられたのは「めし」が「豆腐」よりも自明な「用」を示しているからでした。「豆腐」では「用」を通して「美」が取り上げられましたが、「めし」では「美」を「人間が作るものとは言い難い」と退け、「『美』をつくる術が人間の手にあると思い上がったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった」と指摘します。「めし」の原点はそのような切断以前にあり、「めし」はまず神に捧げられ「人間の生きる糧であると同時にまた『神』の力を養うもの」でした。「めし」が「単純に手段ではなく、人間の生きる理由であり目的であった」のです。そして「めし」はかかる『神』と人間の生命を内面的に契合する具体的なコオペレイィションの『用』であり、象徴となった。『めし』は日本的形姿の母体たらざるをえない」と『めし』の伝統が論じられます。

 そして変動する歴史の中で「人間の生命と自然の根本法則の連着」が切断されても、「日本的人間構造の表徴たる『めし』は、あたかも文化がどのように進んでも人間の悲しみ笑う理由に変りのない如く、その意味と価値を変えるものではなかった」と論じられます。しかしその歴史の過程で生じたさまざまの差別や貧富、理不尽や背理と「めし」もまた無縁ではありませんでした。「一つの櫃(ひつ)から分配される『めし』の椀を満たすのは必ずしも等しい量ではない」のです。そしてそこから起こる分裂を繋ぎ止める母の祈りと犠牲と愛が描かれます。

 

 「母の給仕は空虚な仕事の反覆たることを許さない。平衡と調和の配分の後、櫃の中にはしばしば『めし』は祈りと愛の故に一粒も残さないのである。母の生命を支える『めし』は犠牲の愛としてしか残っていない。しかしこの小さいコミュニティを、異なった世界観をもっても分裂させず、内部から繋ぎ堪えるものは不幸にもかかる背理であり、常に『めし』の『用』を極限に高めた『母』の犠牲であった。」

 

 日本的な伝統の原点に示された「めし」はこうして「一つの生命が他の生命に奉仕する」ことである「用」の究極的な形として描かれます。しかしその「めし」は人と物との関係では終わらずに、「『めし』の『用』を極限に高めたの」は「母」の犠牲的な愛であったとする人と人の関係へと導かれます。そして「小さいコミュニティを、異なった世界観をもっても分裂させ」ない「母」の無私の愛と犠牲という背理を示すことでエセーは結ばれます。ここで取り上げられている「小さいコミュニティ」が一つ一つの家族ばかりでなく、「世界観」という言葉を通して国や世界や人類に向けられていることは明らかです。「異なった世界観」による分裂やいさかいは世界大戦後も続く世界の現状でした。その中に原爆の問題もあり、「原爆堂計画」の主旨に示された「共存」とは「異なった世界観」による分裂を克服することによってこそ可能性が生まれるものであり、理想主義的な理念としてではなく、母の犠牲の愛といった「背理」を背負う理念として捉えられていることが認められます。

 

                                                      白井磨

02:13 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | -
白井晟一のエセー 「すきな色」

 『白井晟一研究』の『后戮魯轡蝓璽困虜能巻で白井晟一の没後一年目に出版されたが、先行する四巻とは異なり10篇の白井晟一論で構成されている。その巻頭で白井晟一の未発表のエセーを2編掲載した。従ってエセー集『無窓』には掲載されなかった草稿的なもので、かれが生きていれば推敲を重ねて発表することになっただろうと思われるので、未完成の草稿である。没後5年目に出版された『白井晟一全集』には再録され、このブログでも2011年の9月にアップしたものの再録である。
 

 

 

                  好きな色

 

「すきな色」が色見本を開いて語れるなら大部ではあるがひさしく国際的に評価されているマンセルのような色名帖の番号を示すだけで話はしまいである。しかし「すきな色」の問はおそらく、あなたがたの夫々独自な生活のなかの「すきな色」を語れということにちがいない。
 いずれにしてもここではスペクトルかエレクトロニクスといった科学的分析、演繹は問題ではないし、観念の中のいはば抽象の色まで対照とするゆとりはない。
 わたしにとって抽象でない色。それはまず「もの」の記號だという命題からでてゆくよりない。すでに「もの」自体、模糊として無際限、しかも不安定な概念だが、とにかく森羅万象がわれわれに対決してくれるのに欠くことのできないのはこの記號である。つまり「もの」が歴史時間と知覺環境のうちで具体としてとらえられるには、この色というモメントなしでは認識にも観照にもまた「用」にも達することはできないということである。つまり「もの」は色をもってはじめて「もの」となり、また色は「もの」の記號となってはじめて成立する。端的にいえば色は「ものの色」だということである。
 こうして色がわれわれの想念の中でも、あるいは夢の中でさえも「もの」の記號としてあるよりないとすれば、全宇宙系列の中で生命としてあるかぎり、われわれの知覺風景の中で、色は圧倒的で、万象の意味に宿命のような絶対の比重をもっているにちがいない。
 わたしは建築家だから土、金属、コンクリィトあるいは硝子の色から目をはなすことはない。しかしその色は建物を形成する材質、即ち「もの」の色であって、平常それらの色だけを抽象して意識することなどないといってよい。われわれの生業と直接関係のない人にも、壁の土や木肌の自然な色合いの魅力に憑かれたという話をよく聞くのだが、印象として浮かぶ色はすでにその材質に溶解してそれと一体になっている色を見ているのだと思う。
 さて「すきな色」への素樸な答えに、私には「青」がある。李朝大壺の白も天目窯変の黒も、そしてイベリヤの血と砂から連想する情熱の赤も「すきな色」にはいらぬわけではないしすてがたいが、敢えて一つを問われれば「青」と答えよう。
 もちろん概念の「青」ではない。ある特定の「もの」の記號としての青である。それは深々と碧をたたえた清澄なな水の青だし、ペルシァンブルゥといわれる中近東の古い焼物やモスクのタイル壁の青釉から、藍草を絞って気の遠くなるほど染め重ね、原材(麻、絹、木綿など)の髄まで醇化して底光りがしている濃紺。またロココシャトウの青灰色に塗られた居室の情感あふれる内壁などひさしくあやかりたかった青のたたずまいだ。理想の色といわれる蒼空や紺碧の海という自然の青もあるが、「もの」の記號となる色はそのバックグラウンドにある風土と文化の質が滲みだしたものというより他ない。
 東洋の色と西洋の色とには本質的な違いはあるが、ともに古代からの長い歴史時間の中で、無限な可能性をもちながら微妙に変化、顕現してきたいはば歴史を含んだ色である。
 おなじ東洋の赤といっても、朝鮮李朝工芸の愛撛掬すべき赤は、江戸文化の爛熟が育てた赤から発見することはできないし、グレコロマンのスタッコ壁画の赤を、ルネサンスやバロック名匠の作画から探しだそうとしても無駄だと思う。
 どんな色も人間と歴史の中で生れたいはば一期一会ともいうべき所産だから、それぞれある文化時代の最も顕著な象徴となる記號だといえるのではないか。こうしてたとえばわれわれが生息している都市さえ、その外貌を構成する色の品格の程度によって否応なく、その文化の質と水準が語られてしまう。
 この老究にとって地獄、極楽の彼岸はせまっているというほかないが、生きているあいだなやまされつづけたこの色、幽明を異にしてまだこの色と無関係ではありえないだろう。閻魔廟の炎か、楽園浄土の瑠璃玉楼か、これもまた赤と青。
 それにしても青は「希望」の色だとはよく言ったものだ。

21:53 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | -
白井晟一の青年時代ードイツ留学に至るまで(インタヴュー草稿から)

いつ頃からですか。まだ中学生ですね。親戚の小出次雄(後に西田幾多郎の弟子となり、柳宗悦の斡旋で仙石貢の養子になった)の影響もあったんでしょうが、哲学を勉強しようと思ってました。時々小出にカントを読んでもらったりしているうちに、子供ながらひそかに学校へゆこうと考えてたんですね。そんなことで志望上級学校のアンケートにベルリン大学哲学科と書いて、担任の教師をだいぶ不機嫌にしたのを思い出します。

父も家産もない身分ですから、ドイツは少々無理でしょうね。それで同級生四人といっしょに一高をうけました。仲のよかった友達には一緒に地方へゆこうとモウレツにすすめられたんですが、まあ曲りなりに自信もあったんでしょう。矢張一年前に四年から慶應医科へ入った友達なんかたいへん熱心で試験場の外で待っててくれたり。しかしそれがたいこ判をおしてくれた声援者達の期待を裏切って、アウト。もう進学はやめようと思いました。九月に震災で義兄の家族と京都へ移住しました。小出との交友は絶え絶えでつづいていましたが、その頃シュライエルマッハーやフリードリッヒ・シュレーゲルの名を覚えました。

その次の年義兄が友人の都鳥英喜さんからたいへんすすめられたようで、とにかく京都高等工芸学校へ入ることになりました。議事堂を設計された吉武さん(吉武泰水さんのお父さん)の話もききました。姉や義兄は僕になにか造形的な才能があるらしく思っていたようです。病母と弟のことを考えれば、哲学志望は結構なはずありません。とりあえず入れてもらったんですが、学校へはあまりゆきませんでした。ただ英語の先生が高坂正顕さんでホーソーンがテクストだったので欠席しなかったと思います。建築の方はさっぱりでした。あとは図書館でドイツ語、日仏会館でラテン語に一所懸命でした。講義は限度ぎりぎりまで代返で、そのかわり英語の試験の時に後援者数人に便宜をはかりました。

次の年は英語の先生は西谷啓治さんでしたが、小出と同じように西田先生の弟子だったし、テクストのポウを先生は一時間のほとんど、僕一人を対手にすまされたようでした。その頃から奈良に関心をもつようになりまして、図書館より奈良行きの方が多くなりました。仏像、伽藍とは大いに親密になりました。

小出とは細々でしたがずっとカントを続けていましたが、その頃から唯物論の本を見はじめたと思います。ちょうど西谷さんから戸坂さんが英語の教師になられ(高等工芸学校のの英語の教師は西田様から始まってずっとその弟子がかわるがわ就任される慣習になっていたようです)、小出の紹介で親しくしてもらい、学校以外でも時々お話をする機会がありました。小雨の中を若王子川の岸辺を戸坂さんの蛇の目傘にいれてもらって歩いたことなど思い出です。戸坂様がもうその頃唯物論研究会の主なメンバーだったことは知っていましたが、われわれの間では主にギリシャの自然哲学が話題だったようにおぼえています。

おぼつかない月日でしたが、(日本の学校で勉強する気持ちはとっくになかったわけですから)、だんだんドイツ留学への方針もきめられるようになりました。

深田(康算)先生からハイデルベルクのリッカートへの推薦状をもらって敦賀からウラジオストック、ウスリー線、シベリヤ鉄道にのってハイデルベルクへ向かったのは〇〇〇〇年の初夏でしたね。巴里で九月の試験の準備で郊外のプレッシー、ソバンソンのアパルトマンの家に五十日頼りました。

巴里へついてまもなく、旧知の柳亮さんにあい、何故コルビュジェのところへゆかないのかと熱心にきかれました。八月にストラスブールを経てハイデルベルクの下町に、北山淳友さんのお世話で宿を得て、ようやくドイツ遊学の緒に着いたわけです。

試験はきいていた筆記試験はなく、二十分位口頭の返答ですみました。十月になってバーデンの文部省からインマトリキュラチオーンの報せを貰いました。

目標だったリッカートは第一次大戦の際の故障から神経を痛められ、夫人の手を借りて教壇の上り下りをされていました。知らなかったんですがすでに正教授は退かれ16時から18時迄の特別講義はファウストだというわけで、深田先生からの書簡もとうとうお見せしませんでした。

 

白井晟一の原稿の肉筆草稿は白井晟一研究所に多数のこされているが、インタヴューに対する口語体の草稿はほとんど無い。これは毎日新聞で堀利彦氏のインタヴューと重複するところが多いので、その時のものかもしれない。ドイツに留学して以後のことも述べるつもりがあったのかもしれないが、この草稿は留学してリッケルトにあったところで終わっている。文中「唯物論研究会」とあるのは1932年に発足した「唯研」を指すのではなく、唯物論を研究する戸坂等の勉強会を指すのであろう。又小出次雄はドストイェフスキーの研究で後に著名になった学者である。深田康算は白井が渡独して間もない時期に亡くなったことを白井は知る機会があったのだろうか。

                                            

                                           2020.2.18.    白井晟一研究所

   

23:16 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(1) | -
白井晟一の都市へのまなざし 「記号と暗号」小能林宏城

以下は1974年11月号の『商店建築』に小能林宏城氏が書きおろしたノアビルについての論考からの抜粋である。

 

「東京・神谷町の一角に きわめて起伏にとみ 複雑な地形の四つ辻がある。最近そこに 怪異というべきか あるいは異相と呼ぶべきか 一種特異な相貌をもつ塔状建築が出現した。」

「かつて この建築物が立つ敷地周辺や街区は静かな住宅街と下町的な商店街とが 奇妙な具合に入りまじる雰囲気をもっていた。すくなくとも 私が少年時代の頃から学生の頃にかけては そうであった。ところがお定まりのように この地区や街角も急激な都市開発?のために 大小のビルやマンションが無秩序に立ち代わり 雑然と喧騒が支配する街区になってしまった。」

「白井の塔状建築の出現は ここの町辻や周辺街区のタウン・スケープ全体が変ったわけではないのに 確実に特異な雰囲気をもつ町辻をつくり出したのである。」

  

「このような城門や隧道のような開口部と壁の量塊感は 外の世界や空間に対してかたくなな閉鎖感と拒絶性を示し 内部の空間や世界の強固な護持への意志すら感じさせる。

 ところが オブジェが刻み出された壁龕やその付近の壁は逆転して あたかも路上の空間を内部と錯覚させるような 包囲感や呼びかけのセンチメントを放散するのだ。なんという背反効果だろうか。

 ここでは 一方で閉鎖と拒絶を 他方で包囲と呼びかけを 交互に あるいは同時に 表現し暗示しているのだ。上部マッスのシャフトにしてもそうである。」

 

「この基壇と塔は 昼間坂下から仰ぎみると 圧倒的な屹立感と凝結感で迫ってくるが その夕景や夜景は ガラリと表情を変転して 芝居の書割のような幻想的で虚構的な雰囲気を醸成するのだ。塔の壁面に不規則に散りばめられた数少ないスリット状の窓々や曲面ガラスを巻き獟らしたくびれや あるいは下部マッス中央の穿口からこぼれ出る光の綾なしが マッスのつくるシルエットの幽暗の中に浮かび出る。ここでは強固な表情は失せて 抒情的な幻想とでもいうべき表情がかわって立ち現れる。新たな都市の表情が現出してくる。」

 

 

16:59 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | -
石水館の石(静岡市立芹沢げ霹術館)

  以下は『ストーンテリア』vol.2(1985年5月号)で石水館の石について書いたものを推敲して整理した。

 

 静岡市立芹沢げ霹術館(石水館)は後期の代表作として知られる親和銀行本店(長崎県佐世保市)からほぼ10年、白井晟一が遺した最後の石の建築となったものである。(1981年5月竣工)。荒い石が建物の外壁とその外壁と一体化した塀のほぼ全面を覆っている。石は韓国ソウル郊外で産出された赤味のつよい花崗岩で白井が紅雲石と名付けたものだが、本美術館のための採石を最後に閉山されてしまった。(近接する都市部への公害のためときいた。少し先行する渋谷区立松涛美術館の外壁に使われているのも同じ紅雲石である。)

 白井によれば韓国工人の「幼いともいえる企まぬ工法」で約45×21僂梁腓さ、15僂慮さの野面(のづら)加工された紅雲石が積み上げるように築かれた。(『石水館ー建築を謳う』かなえ書房の中で石工事の工程の詳細、白井の石水館における石についての考えも述べられている。)コンクリートの耐震壁に鉄筋で緊結され間にトロモルタルを流し込んで接着する工法は変わらない。しかしタイル状の薄い石板を張り付けるのとは違って、コンクリートと石が互いに補強し合って作られた厚い壁は、表面を視覚に訴えるグラフィックデザインではなく、物としての建築であることを重く見る意想の現われでもあった。

 白井は多様な石を様々な手法で建築に用いたが、合理主義的な意匠を偏重する建材化に向かう一般的な傾向とは対峙して、石の歴史的な文化(ヨーロッパの石造だけでなく日本の石積みの文化を含めて)への関心と洞察をベースに石が本来備えている特質を追求する形で独自の石の建築に向き合った。

 彼の石の建築の中でも石水館に特徴的なのは、外壁の荒い石にとどまらず内部の重要なパートのほとんどを(室と室を繋ぐ開口の枠や床のボーダーなど)一つの石種ー紅雲石で統一している点である。与えられた形や役割に応じて本磨きや水磨き、ノミ取りやビシャン、バーナー仕上げが選ばれ、石の表情が空間の質と緊密に結びつきながら変化する。均一性と多様性の巧妙な交錯と協奏が石水館全体の特質だと言える。ちなみに半地下で八角形塔状の象徴的な空間G室とその前室F室に用いられた黒御影石はインド産、外の池の底石は中国産の玄昌石で、韓国産の紅雲石とともにいずれもアジアの石が選ばれている。           

                                                      白井磨 

 

 

 

 

 

15:00 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | -
「白井晟一の戦後と原爆堂構想」から第8章

 昨年6月の「原爆堂展」に合わせて出版された『白井晟一の原爆堂 四つの対話』(晶文社)は、実はこの本の企画の方が最初にあり、それに合わせて展覧会が企画されたものでした。(出版が遅れたために会期に間に合わなかったのですが)岡崎乾二郎、五十嵐太郎、鈴木了二、加藤典洋の四氏に「原爆堂」を主題に語っていただいたものですが。その冒頭に原爆堂を紹介、解説する意味で序説として「白井晟一の戦後と原爆堂構想」を書きました。以下はその最終章です。本では最後に登場する加藤氏はこの序説を読んだうえでインタヴューに臨まれたので、唯一本の中で対話的な性格を持つことになりました。

 

 

 私は先に「原爆」や「核」と.向き合う建築あるいはプロジェクトが、文明論、近代化論、文化論の盛んであった戦後の建築世界から「原爆堂計画」の他には生まれなかったことの不思議から、戦時下行われた建築家の座談会「大東亜共栄圏に於ける建築様式」と設計コンペ「大東亜建設記念営造計画」における言説を、おなじ時期の言論知識人の著名な座談会「世界史的立場と日本」「近代の超克」と並列して追い、それと同時に、白井の青年期戦争を挟む前後の時代に接点のあった人々の動向を探り、白井にとってそれがどのような時代としての経験であったのかを推しはかる資料として「白井晟一と原爆堂の背景」(『白井晟一の建築』検↓后,瓩襪まーる刊)をまとめました。それに対して本稿は「原爆堂計画」のあと集中的に書かれたエセーの「言葉」から「原爆堂」を捉える視点を示したものです。

 白井がハイデルベルク大学で師事したカール・ヤスパースが戦後まもなくおこなった講演「Die Schuldfrage」は『責罪論』『戦争の罪を問う』『われわれの戦争責任について』と邦題を変えて何度か出版されていますが、この本の解説で加藤典洋氏は次のように紹介しています。「(ヤスパースは)ナチスの治世下、ドイツにあっていわば『祖国喪失者』として毅然とした抵抗をつらぬく。ナチスの政権にユダヤ人の妻との離縁を勧告された時には、これを拒否し、大学を退いている。しかし、いったんドイツが国として敗北し、連合軍の占領統治下におかれ、ユダヤ人絶滅政策をはじめとするさまざまなナチスの罪業があきらかになると、自分をこの悪をなした『敗戦国民』の側におく。多くの同国人がドイツ人たることから遠ざかろうとすると、これに抗するように、そのことに近づく。自分たちのナチスからの解放が同時に敗者の屈辱でもあるとは、どういうことか。彼はこのような『敗戦経験の二重性』に、自分の戦後的思考の起点を、見届けようとするのである。」

 日本でも国民の戦いや運動によってではなく、敗戦というかたちではじめて皇国思想を軸とする全体主義国家からの解放がもたらされました。そして連合国、主としてアメリカの占領支配下で民主主義、近代主義が進められます。開放と屈辱という「敗線経験の二重性」の点ではドイツと等しかったわけですが、加藤氏は「はたしてわたし達の戦後はこのような二重の姿勢をもっただろうか」「敗戦を正面から受けとめた戦後的思考を、日本の戦後はもってきただろうか」と問いかけます。

 加藤氏はこの「戦後的思考」を二つのタイプに分け一つは「誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする『戦後民主主義思想』と呼び、これに対し「今自分たちに課せられた現実を基盤に、この第一の道に『抵抗』しつつ、自己形成する第二の流れ

を「戦後思想」と呼びます。これはとりあえず言論知識人を対象としたものですが、自覚的な敗戦経験の意識の深度を問わなければ、この二つのタイプは戦後の建築家の姿勢や動向にも認められるものです。前出の対談「原爆時代と建築」のなかで浅田孝は戦後十年を振りかえりながら「いま日本には大きな建築思潮の流れが2つあります。ひとつは過去の一種のそういう国際主義につながるモダニズムの立場、もうひとつはソシアリスト・リアリズムと申しますか。人間の生活の現実の中から建築というものが創造されなければならないという立場」だと指摘しています。「国際主義につながるモダニズム」とは「先進の西洋思想」を範とするものであり、後者は戦後の日本の「現実」を重視するという点では重なります。

 白井が欧米の近代建築、近代主義を規範とする意志を持たなかった点では前者に属する立場でなかったことは明らかですが、かといって後者の立場で捉えることも的からずれてしまうように見えます。エセー「豆腐」「めし」は生活の中にある「現実」を物と人のメカニズムと民族の歴史から捉え直そうとする作業でした。かれの「伝統」論は日本の伝統を単に欧米と比較するのではなく、それまでの日本の伝統の捉え方に対する疑義と批判の中から、伝統の原点を探り新たな文脈を見出そうとするものであったことはエセーにくり返し見たとおりです。「近代好き」な戦後建築に同調することがなかったのは、同時代としての近代は当然現実のものではあっても、時代を一定の概念で括ってそこから規範や様式を定位するといったイデオロギー指向は、袋の中身を変えただけの戦前、戦中の思考形態と質的に変わらないものであり、戦前から抱えられてきた近代の持つ矛盾や問題を宙吊りにしたままで「近代」的であることに正当性やアクチュアリティーを求める思考は、白井にとってはむしろ自由な創造活動を内側から阻むものとして克服すべき課題であったことは、1967年の原広司氏のインタヴューに対して「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかったんだが」という述懐に現れていますが、さらに1974年の作品集(中央公論社刊)では「原爆堂計画」について述べる中で「概念や典型の偏執から自由になることはそのころの自分にとって、難しい、大きい作業であったが」と回想していることからも窺えます。

 ヤスパースの「戦後的思考」の起点を加藤氏は次のフレーズに指摘しています。「恐ろしい破壊のなかに新たな状態が与えられているのは、われわれ自身の努力で達せられたのではないのだ。」このような敗戦の自覚を厳しく自らに問う「戦後的思考」から「原爆堂計画」を見ることによって、「原爆堂」に「創造的であること」が強く求められた理由がようやく判然としてきます。それは欧米の近代からの模倣や追従を切断し、一方で典型化された日本的伝統を原点から見直す意志をもって、「歴史と民衆のはかりつくせぬ昏い深み」と向き合う「破壊力」を「創造的活動」に求めることによってしか、自立した文化の構築に向かうことが出来ないという、いわば白井の「戦後的思考」を示すものであったと捉えられます。それは「原爆堂」のプロジェクトにおいて近代的技術文明を象徴する「核」と対峙する思考のなかでより鮮明になっていったものでした。

 「原爆堂計画」に添えられたコメントは「戦争のない永久平和を祈念する同じ願いの民衆のあまねき協働によって、またぜひそういう成り立ちからでなければできない建物であると思っている。」と結ばれています。「原爆堂」のクライアントが国家ではなく「平和を祈念するおなじ願いの民衆」であることが強調されました。ここにもかれの「戦後的思考」の性格が現れていると言えます。

                                                      白井磨

23:14 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
加藤典洋さんの訃報に接して「加藤典洋と白井晟一の原爆堂計画」

 

 

 昨年の暮れに体調を崩されていると知り気がかりだった加藤典洋さんが亡くなられた。(5月16日) 昨年7月に出版された『白井晟一の原爆堂 四つの対話』(晶文社)では私のインタヴューに応えて、短い準備期間しかなかったにもかかわらず、白井のエセーや建築の作品集、私の書いたものにまで詳細に目を通し、白井の設計した松涛美術館も訪れた上で臨んでくださった。初めてお会いしお話を伺ったわけだが、その後の校正でのやり取りも含めて、とりあげた問題にたいする自身の発言への、言いっぱなしに終わらせようとしない真摯で、深い意志の現われにつよく魅了された。

 インタヴューは2017年の暮れに晶文社の応接室で2時間余りかけて収録された。加藤さんに原爆堂計画というものを知っていただき、それをどのように捉え、どのように考えるか話を伺いたいと考え、一年余りかれの著作を読みあさっていたが、2017年の春になって出版された『敗者の想像力』(集英社新書)を読んで、原爆堂計画とのかなり具体的な接点をようやく見つけることが出来たように思い、出版社から依頼をしてもらうと同時に、どうして加藤さんにお願いしたいのか手紙を差し上げたところ、それから間もなく承諾の連絡をいただいた。 

 きっかけになった『敗者の想像力』の中では林達夫の「戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得なかった。」を引用したうえで、敗者の想像力を示す思想家として吉本隆明と鶴見俊輔を挙げ、かれらの深さをつくっていたものが「戦争に敗れ、人びとが反省し、勝者の新しい世界を学ぼうとしたときに、彼らはそれとは逆に、敗者であるとはどのようなことかをみきわめようとした」ところにあり、それは「彼ら二人だけのことではなく、そこに戦後の思想の一番深いありようが現れている。」と書かれていた。

 加藤氏は『敗戦後論』をはじめ多くの論考で「戦後的思考」というものを主題化して論じて来られたが、それはヤスパースの「ナチスからの解放が同時に敗者の屈辱」でもあった「敗戦経験の二重性」という、自らに突きつけた思考を糸口に展開されてきた。「敗者の想像力」はそこからさらに積極的な議論へと進められ、日本の戦後の文化の大勢が陥った「小ぶりの勝者の模倣者」となることを拒絶する意志を前提とするものとして提示されている。それは白井晟一の占領下での講演「日本建築の伝統」(1951)や、建築界の伝統論争のさなかに投じた「縄文的なるもの」(1956)の中で、日本の戦後の近代建築が独自の創造に身を削るよりも、欧米の近代に追従する模倣や剽窃に陥っていることを厳しく批判したことと通じるものだった。白井は建築家としての出自と日本の近代建築の潮流とは異なった作風の独特性が強調され、近代戦争の時代と戦後という経験を共有する一人の日本人としてのレベルで論じられることがあまりなかったように見える。近代の技術文明を象徴する核の問題と向き合ったた原爆堂計画やかれの初期の言説に目を向ければ、近代化と敗戦という日本人が負った問題に対する強い意識を地盤にもつ姿勢がはっきりと浮かび上がってくるエセーにくり返し現れた「日本的創造」への強い意志もその文脈の中でようやく明らかに見えてくることになるいずれにしても加藤氏の「戦後的思考」「敗者の想像力」は「原爆堂計画」というものが白井によってどうして企てられ、設計されたのかへの通路を開くものだった。加藤氏も「この人(―白井晟一)のさまざまなものの考え方が、自分の考え方、とくに1990年代の仕事、又3・11以降に試みてきたことと無関係ではない、という風に思いました。」と語り、それが原爆堂を主題とするインタヴューに応じられた理由でもあったのだろう。

 インタヴューでは原爆堂計画と建築家としての白井晟一にたいする様々の洞察と見解が展開されたが、その中でかれは吉本隆明が『アフリカ的段階について―史観の拡張』(春秋社)で歴史を外在史(意識の世界)と内在史(動物生の世界)に分け「外在史の未来の先までかんがえることがもし人間全体にとって意味を持つとしたらそれはその未来への呼びかけが、アフリカ的な段階という人間の内在史への遡及の試みと一対で行われるときでしかない」という視点を取り上げ日本の文化の始原に遡及して伝統を論じた「縄文的なるもの」と「めし」、そして「世界に向けての未来への祈念」を託すものとして計画された原爆堂とから、白井の「未来と始原の同時探求」という想念を捉え、このインタヴューの表題に選ばれた。

 さらに原爆堂計画が白井の「現実との対し方、そして考え方が象徴的に現れている」ものと捉えた上で、カントの二本立ての「理念」の考え方、  

一つは現実に実現されるべきものとして意味を持つ「構成的理念」、もう一つは現実には実現が難しいかもしれないが、目標としてそこにあることが「自分たちにとって、人類にとって必要」なものとして掲げられる「構成的理念」を取り上げ、「原爆堂計画」にこの二つの理念の内的緊張と葛藤を認められた。

 そしてもう一つ強い印象をのこした加藤氏の指摘は、丹下健三の「廣島計画」と白井の「原爆堂計画」を比較したうえで、白井を「建築というものはどのようなものでありうるか」「あるべきか、ではなくて、ありうるか」という、主義やイデオロギーではなく、自由な立場からの建築の可能性を求めた建築家として捉えた点である。加藤氏はこのインタヴューの最後を次のように締めくくっている。「僕は、今回、いろんな問いを自分の前に置かれましたあと100年かかろうと、200年かかろうと、日本の社会は、この建築計画(―原爆堂)を胸に留めて、いつかこの問いに答えるのが良いと思っています。」

 

 『白井晟一の原爆堂 四つの対話』が出版されて間もなく、加藤氏は信濃毎日で担当されていたコラム「思索のノート 水たまりの大きさで」に《「核と対峙する建物」の夢 東京五輪と原爆堂》を寄稿され、そこでは次のように記されている。「広島、長崎の人びとだけでなく日本人が。日本人だけでなく、アメリカを含む世界の人びとが。この建築の前に立つこと。そういう建物を、日本のどこかに、実現すること。小さな意思を起点に、日本の社会に、世界の人びとに、拠金を呼び掛けて。東京五輪に向け、新競技場の建設が進むなか、そんな夢を私は見ている。」そして翌月には「思索ノート 水たまりの大きさで」の挿絵を担当されていた宮森敬子さんの松本での展覧会で、原爆堂をテーマに宮森さんと対談された。

 

                                                                       2019年6月2日 白井磨

 

22:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
加藤典洋と白井晟一

 

 加藤典洋さんの早すぎるご逝去を悼み、ご冥福を祈ります。以下は昨年の7月にアップしたブログです。 

 

 晶文社刊行の『白井晟一の原爆堂 四つの対話』は最初に原爆堂計画というものを白井のエセーから解説する拙論「言葉と建築 白井晟一の戦後と原爆堂構想」をかわきりに、原爆堂というものを岡崎乾二郎「建築の覚悟」、五十嵐太郎「社会と建築家の関係」、鈴木了二「建築が批評であるとき」、加藤典洋「未来と始原の同時探求」の順に四人の方に語っていただいた原爆堂論、白井晟一論で構成されている。

 岡崎氏は2011年の「白井晟一展」にぶつけるように『美術手帖』の2及び3月号に「芸術の条件 白井晟一という問題群 上、下編」で原爆堂、ノアビル、懐霄館を中心に本格的な白井晟一論を世に問われた。五十嵐氏は2016年の建築人文学的な著作『日本建築入門 近代と伝統』で原爆や民衆などの章を設けその中で原爆堂と白井のエセー「縄文的なるもの」をとりあげて解説されている。鈴木氏は1982年に『白井晟一研究 検戮如岼貂の白いパンフレット 批評としての建築「」というタイトルですでに原爆堂を論じられている。白井晟一を論じる中で原爆堂について触れられることはあっても、原爆堂をテーマとして掲げられた論考は他には1974年の小能林宏城氏の「新生の空間」(『白井晟一の建築』中央公論社)くらいであったように思う。

 そういうわけで3人の方は既に原爆堂を論じられているが、加藤氏は語られている内容を見るととても初めてとは思えないが、今回初めて原爆堂や白井晟一をテーマとして考察し迫真の言及を展開された。個人的には加藤氏の原爆堂論でなによりも魅力的だったのは原爆堂とエセーの解析から白井の人間像、人間性にまで至っていることだった。加藤氏はこれまで日本の戦後社会、戦後文化における様々な人間像を浮かび上がらせて来られたが、そのような同時代を生きた一人の人間として白井の実像に迫っている。

 原爆堂を白井の現実との対し方、考え方が象徴的に現れているものとして捉える加藤氏の原爆堂論はまず、現実との間に橋のかけられている理念(統整的理念)と、その橋をいったん落として「自分の生きている間には実現できないかもしれない」が「自分たちにとって、人類にとって必要」な目標としての理念(構成的理念)の二つの種類の理念があることを解説し、原爆堂計画がその二つの理念の二重構造を持っていることを指摘されている。そしてもう一つの大きな指摘は吉本隆明の外在史と内在史の理論を引きながら、原爆堂計画の未来へ向かう思考と「縄文的なるもの」の始源に向かう思考が同じ思考空間の中で同時に行われていることを重視し次のように述べられている所である。「原爆を落とされたという経験がある中で、世界の未来の祈念に向けて構想しようというのであれば、それを支える自己省察、おのれの文化の源泉への態度は、どのように深く厚いものでなければならないか。」

 

 

 

 

 

23:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)

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