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加藤典洋さんの訃報に接して「加藤典洋と白井晟一の原爆堂計画」

 

 

 昨年の暮れに体調を崩されていると知り気がかりだった加藤典洋さんが亡くなられた。(5月16日) 昨年7月に出版された『白井晟一の原爆堂 四つの対話』(晶文社)では私のインタヴューに応えて、短い準備期間しかなかったにもかかわらず、白井のエセーや建築の作品集、私の書いたものにまで詳細に目を通し、白井の設計した松涛美術館も訪れた上で臨んでくださった。初めてお会いしお話を伺ったわけだが、その後の校正でのやり取りも含めて、とりあげた問題にたいする自身の発言への、言いっぱなしに終わらせようとしない真摯で、深い意志の現われにつよく魅了された。

 インタヴューは2017年の暮れに晶文社の応接室で2時間余りかけて収録された。加藤さんに原爆堂計画というものを知っていただき、それをどのように捉え、どのように考えるか話を伺いたいと考え、一年余りかれの著作を読みあさっていたが、2017年の春になって出版された『敗者の想像力』(集英社新書)を読んで、原爆堂計画とのかなり具体的な接点をようやく見つけることが出来たように思い、出版社から依頼をしてもらうと同時に、どうして加藤さんにお願いしたいのか手紙を差し上げたところ、それから間もなく承諾の連絡をいただいた。 

 きっかけになった『敗者の想像力』の中では林達夫の「戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得なかった。」を引用したうえで、敗者の想像力を示す思想家として吉本隆明と鶴見俊輔を挙げ、かれらの深さをつくっていたものが「戦争に敗れ、人びとが反省し、勝者の新しい世界を学ぼうとしたときに、彼らはそれとは逆に、敗者であるとはどのようなことかをみきわめようとした」ところにあり、それは「彼ら二人だけのことではなく、そこに戦後の思想の一番深いありようが現れている。」と書かれていた。

 加藤氏は『敗戦後論』をはじめ多くの論考で「戦後的思考」というものを主題化して論じて来られたが、それはヤスパースの「ナチスからの解放が同時に敗者の屈辱」でもあった「敗戦経験の二重性」という、自らに突きつけた思考を糸口に展開されてきた。「敗者の想像力」はそこからさらに積極的な議論へと進められ、日本の戦後の文化の大勢が陥った「小ぶりの勝者の模倣者」となることを拒絶する意志を前提とするものとして提示されている。それは白井晟一の占領下での講演「日本建築の伝統」(1951)や、建築界の伝統論争のさなかに投じた「縄文的なるもの」(1956)の中で、日本の戦後の近代建築が独自の創造に身を削るよりも、欧米の近代に追従する模倣や剽窃に陥っていることを厳しく批判したことと通じるものだった。白井は建築家としての出自と日本の近代建築の潮流とは異なった作風の独特性が強調され、近代戦争の時代と戦後という経験を共有する一人の日本人としてのレベルで論じられることがあまりなかったように見える。近代の技術文明を象徴する核の問題と向き合ったた原爆堂計画やかれの初期の言説に目を向ければ、近代化と敗戦という日本人が負った問題に対する強い意識を地盤にもつ姿勢がはっきりと浮かび上がってくるエセーにくり返し現れた「日本的創造」への強い意志もその文脈の中でようやく明らかに見えてくることになるいずれにしても加藤氏の「戦後的思考」「敗者の想像力」は「原爆堂計画」というものが白井によってどうして企てられ、設計されたのかへの通路を開くものだった。加藤氏も「この人(―白井晟一)のさまざまなものの考え方が、自分の考え方、とくに1990年代の仕事、又3・11以降に試みてきたことと無関係ではない、という風に思いました。」と語り、それが原爆堂を主題とするインタヴューに応じられた理由でもあったのだろう。

 インタヴューでは原爆堂計画と建築家としての白井晟一にたいする様々の洞察と見解が展開されたが、その中でかれは吉本隆明が『アフリカ的段階について―史観の拡張』(春秋社)で歴史を外在史(意識の世界)と内在史(動物生の世界)に分け「外在史の未来の先までかんがえることがもし人間全体にとって意味を持つとしたらそれはその未来への呼びかけが、アフリカ的な段階という人間の内在史への遡及の試みと一対で行われるときでしかない」という視点を取り上げ日本の文化の始原に遡及して伝統を論じた「縄文的なるもの」と「めし」、そして「世界に向けての未来への祈念」を託すものとして計画された原爆堂とから、白井の「未来と始原の同時探求」という想念を捉え、このインタヴューの表題に選ばれた。

 さらに原爆堂計画が白井の「現実との対し方、そして考え方が象徴的に現れている」ものと捉えた上で、カントの二本立ての「理念」の考え方、  

一つは現実に実現されるべきものとして意味を持つ「構成的理念」、もう一つは現実には実現が難しいかもしれないが、目標としてそこにあることが「自分たちにとって、人類にとって必要」なものとして掲げられる「構成的理念」を取り上げ、「原爆堂計画」にこの二つの理念の内的緊張と葛藤を認められた。

 そしてもう一つ強い印象をのこした加藤氏の指摘は、丹下健三の「廣島計画」と白井の「原爆堂計画」を比較したうえで、白井を「建築というものはどのようなものでありうるか」「あるべきか、ではなくて、ありうるか」という、主義やイデオロギーではなく、自由な立場からの建築の可能性を求めた建築家として捉えた点である。加藤氏はこのインタヴューの最後を次のように締めくくっている。「僕は、今回、いろんな問いを自分の前に置かれましたあと100年かかろうと、200年かかろうと、日本の社会は、この建築計画(―原爆堂)を胸に留めて、いつかこの問いに答えるのが良いと思っています。」

 

 『白井晟一の原爆堂 四つの対話』が出版されて間もなく、加藤氏は信濃毎日で担当されていたコラム「思索のノート 水たまりの大きさで」に《「核と対峙する建物」の夢 東京五輪と原爆堂》を寄稿され、そこでは次のように記されている。「広島、長崎の人びとだけでなく日本人が。日本人だけでなく、アメリカを含む世界の人びとが。この建築の前に立つこと。そういう建物を、日本のどこかに、実現すること。小さな意思を起点に、日本の社会に、世界の人びとに、拠金を呼び掛けて。東京五輪に向け、新競技場の建設が進むなか、そんな夢を私は見ている。」そして翌月には「思索ノート 水たまりの大きさで」の挿絵を担当されていた宮森敬子さんの松本での展覧会で、原爆堂をテーマに宮森さんと対談された。

 

                                                                       2019年6月2日 白井磨

 

22:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
加藤典洋と白井晟一

 

 加藤典洋さんの早すぎるご逝去を悼み、ご冥福を祈ります。以下は昨年の7月にアップしたブログです。 

 

 晶文社刊行の『白井晟一の原爆堂 四つの対話』は最初に原爆堂計画というものを白井のエセーから解説する拙論「言葉と建築 白井晟一の戦後と原爆堂構想」をかわきりに、原爆堂というものを岡崎乾二郎「建築の覚悟」、五十嵐太郎「社会と建築家の関係」、鈴木了二「建築が批評であるとき」、加藤典洋「未来と始原の同時探求」の順に四人の方に語っていただいた原爆堂論、白井晟一論で構成されている。

 岡崎氏は2011年の「白井晟一展」にぶつけるように『美術手帖』の2及び3月号に「芸術の条件 白井晟一という問題群 上、下編」で原爆堂、ノアビル、懐霄館を中心に本格的な白井晟一論を世に問われた。五十嵐氏は2016年の建築人文学的な著作『日本建築入門 近代と伝統』で原爆や民衆などの章を設けその中で原爆堂と白井のエセー「縄文的なるもの」をとりあげて解説されている。鈴木氏は1982年に『白井晟一研究 検戮如岼貂の白いパンフレット 批評としての建築「」というタイトルですでに原爆堂を論じられている。白井晟一を論じる中で原爆堂について触れられることはあっても、原爆堂をテーマとして掲げられた論考は他には1974年の小能林宏城氏の「新生の空間」(『白井晟一の建築』中央公論社)くらいであったように思う。

 そういうわけで3人の方は既に原爆堂を論じられているが、加藤氏は語られている内容を見るととても初めてとは思えないが、今回初めて原爆堂や白井晟一をテーマとして考察し迫真の言及を展開された。個人的には加藤氏の原爆堂論でなによりも魅力的だったのは原爆堂とエセーの解析から白井の人間像、人間性にまで至っていることだった。加藤氏はこれまで日本の戦後社会、戦後文化における様々な人間像を浮かび上がらせて来られたが、そのような同時代を生きた一人の人間として白井の実像に迫っている。

 原爆堂を白井の現実との対し方、考え方が象徴的に現れているものとして捉える加藤氏の原爆堂論はまず、現実との間に橋のかけられている理念(統整的理念)と、その橋をいったん落として「自分の生きている間には実現できないかもしれない」が「自分たちにとって、人類にとって必要」な目標としての理念(構成的理念)の二つの種類の理念があることを解説し、原爆堂計画がその二つの理念の二重構造を持っていることを指摘されている。そしてもう一つの大きな指摘は吉本隆明の外在史と内在史の理論を引きながら、原爆堂計画の未来へ向かう思考と「縄文的なるもの」の始源に向かう思考が同じ思考空間の中で同時に行われていることを重視し次のように述べられている所である。「原爆を落とされたという経験がある中で、世界の未来の祈念に向けて構想しようというのであれば、それを支える自己省察、おのれの文化の源泉への態度は、どのように深く厚いものでなければならないか。」

 

 

 

 

 

23:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
白井晟一と近代

 以下は拙論「言葉と建築 白井晟一の戦後と原爆堂構想」(『白井晟一の原爆堂 四つの対話』2018. 晶文社刊の序論)からの一節です。白井晟一にとって近代という問題は、近代技術の頂点を示す原子力の開発と向き合うことなしに成立するものではなかったということを示しているものが「原爆堂計画」であるという視点から解析を試みたものです。

 

 「白井が欧米の近代建築、近代主義を規範とする意志を持たなかった点では前者に属する立場ではなかったことは明らかですが、かといって後者の立場で捉えることも的からずれてしまうように見えます。エセー「豆腐」「めし」は生活の中にある「現実」を物と人のメカニズムと民族の歴史から捉え直そうとする作業でした。かれの「伝統」論は日本の伝統を単に欧米と比較するのではなく、それまでの日本の伝統の捉え方に対する疑義と批判のなかから、伝統の原点を探り新たな文脈を見出そうとするものであったことはエセーにくり返し見たとおりです。「近代好きな」戦後建築に同調することがなかったのは、同時代としての近代は現実のものではあっても、時代を一定の概念で括ってそこから規範や様式を定位するといったイデオロギー指向は、袋の中身を変えただけの戦前、戦中の思考形態と質的に変わらないものであり、戦前から抱えられてきた近代の持つ矛盾や問題を宙吊りにしたままで「近代」的であることに正当性やアクチュアリティ—を求める思考は、白井にとってはむしろ自由な創造活動を内側から阻むものとして克服すべき課題であったことは、1967年の原広司氏のインタヴューに対して「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのがおそかったんだが」という述懐に現れていますが、さらに1974年の作品集では「原爆堂計画」について述べる中で「概念や典型の偏執から自由になることはそのころの自分にとって難しい、大きい作業であったが」と回想していることからも窺えます。」

22:21 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
時を刻む空間について

  2011年10月のブログ「時を刻む空間」から

 

 白井晟一研究所で最初に描いた図面は、親和銀行第2期のバンキングホールの時計の原寸図だった。文字のサンプルを渡され、中村(大村)健策さんの指導で大きなコンパスや曲線定規を作ったりしながら描いた。10メートル余りある天井の高いホールのスゥエーデン産の緑色の化粧柱と同じ材質で、奥の天井の低いスペースの上にできた小壁に設置されるものだった。

親和銀行本店では鬼のバンキングホールにもやはりオリジナルの時計がデザインされ設けられている。あるいは鬼の建築のエレベーションにも象徴的な時計が小さな階段の上に設計されている。銀行は利子で商売をする機関であり、利子は時に支配されている。そういう分かりやすい理由もつけ加えられていたかもしれないが、ここで時計に託されていたのは時を刻む空間への意想であったと思われる。

広いバンキングホールの多少漠然とする空間のなかで、これらの時を刻むツールは、ワンポイントのアクセントとして空間を引き締める効果も挙げている。電気式の時計だから音が響くことは殆どないが、針は確実に時の流れを告げ続ける。

呉羽の舎の建設に際して、白井はクライアントのU氏と北陸一体の古道具屋を頻りに訪れて、30余りに及ぶ古時計を購入したことがある。大抵は使用可能なもので、機に応じて知人に分けていたが、時計という「物」への関心がもともと高かったようだ。その古時計を選ぶ基準の一つは文字盤の数字の字体だった。古時計は殆どローマ数字だが、一つづつの字体と、字の大きさや配列のよしとするものが選択された。


 

16:49 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
町ー小さな小鳥屋さん

 

           町 ― 小さな小鳥屋さん

 

 子供のころから近所に小さな小鳥屋があった。商店街や駅に行く途中でよくその前を通った。二間ほどの間口に引き違いのガラス戸が四枚はまっただけの小さな店で小鳥もそれほどたくさんいるというわけではなかったが、大人も子供も客はよく入っていた。暖かい季節には戸が開け放たれて小鳥たちのさえずる声も聞こえてきた。あるじは白い顎ひげをたくわえた老人だった。学者か学校の先生のような風貌で、小鳥と話す仙人のようにも見えた。客のいないときは天井からぶらさがった裸電球の下で、小さな椅子に腰かけて本を読んでいることが多かった。かれの足元ではよく小さな女の子が遊んでいて娘のように見えたから、今考えてみると見かけほど老人ではなかったのかもしれない。隣には小さな庭をはさんで質素な家があり、細君らしい女性が縁側で洗濯物をたたんだりつくろい物をしたりしていつも働いている姿が、丈の低い生垣ごしに見えた。誰でも前を通ればその家のことがなんとなくわかるようなたたずまいだったのである。

 時が流れ、あるじの傍らにいつもいた少女も大人になっていつの間にか姿を見かけなくなった。小鳥屋のあるじはそれまでと変わらずいつものように小鳥のえさを作ったり、小鳥や客と話したりして同じように仕事を続けていた。何年かして娘が母親の小さい時とそっくりな2,3歳の女の子を連れて帰ってきてまたずっといるようになった。それからしばらくして小鳥屋のあるじが亡くなった。張られた黒枠の喪中の紙がさびしかった。だいぶ長い間店も隣の家も静まりかえって暗く閉ざされていたように思う。しかしあるとき前を通ると、細君があるじのすわっていた椅子に腰かけて店番をしている姿を見るようになった。戻ってきた娘も交代で店を守るようになった。

 時代とともに小鳥を飼う家も減ってきていただろう。それに彼女らは亡くなったあるじほど小鳥や飼育に詳しくはなかったかもしれない。店を訪れる客は減り、割れたガラスを紙で張ってしのぐようになっていった。しかし彼女らはけっして店を閉じようとはしなかった。客が来ようが来なかろうがいつも母娘のどちらかが店番をし続けた。小さな裸電球が灯っていれば店は開いていた。

 小鳥屋についての記憶が始まるのは、私が小学校に通い始めたころだから半世紀近くが流れていったことになる。そのあいだ私はただの一度もこの小鳥屋の店の中に入ったことも、小鳥屋の人たちと言葉を交わす機会ももつことがなかった。それにもかかわらず、店のガラス戸を通してあるいは低い生垣越しにこの家族の生活や人生を、単なる好奇心というには余りにも長い間、ぼんやりと垣間見続けていたのである。近くにいない親戚や友人たちよりも余ほど近しく、ときには気持ちを動かされながら見続け、記憶に刻み続けていたのである。

 ある時小鳥屋の細君が通りをすこしおぼつかない足取りで歩いているのに出会った。そしてその後を少し距離をおいて娘がついて歩いていた。年老いた母は痴呆をわずらうようになっていたのだ。母親の世話に追われることになった娘は店番を続けることが出来なくなり、店からは小鳥のさえずりが消え、人けもなくなった。やがて母親は亡くなり、店は痛み朽ちるにまかせられて、再び明かりの灯ることはなかった。店を壊して土地を貸しでもすればなにがしかの収入につながったに違いない。しかし娘は母親が亡くなってからも店を手放そうとはしなかった。

 

 半世紀間見続けていた小鳥屋の小さな店も住いも今は残っていない。小鳥屋のあるじの娘と孫娘がどこに移っていったのかもわからない。私には長年住んだ町にそれほど思い入れがない。それが単なる行政区画を越えて町と言えるようなものなのかどうかも疑わしい。しかし通りがかりに垣根越しに目に映り続けていたあの小さな小鳥屋とその人々へ記憶が、私には唯一町というものへの遥かなイメージに向かわせるのである。                                                                                                      

                                                                                                                                                    2008年  秋

 

 

00:23 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
狭間からの視点

                               2011年1月31日のブログから

              歴史を見る目

 

 歴史を見ていると、名を遺したその人物がいなかったとしても、同じような歴史的役割を果たすような人物が別に登場していたに違いないと思うことがある。少なくとも社会や時代との関連性を抜いては、歴史的な個人についての解析や理解は客観性を失う。異端や孤高、あるいは哲人建築家というような言葉で特殊化されてきた白井晟一という存在が、例外的あるいは唯一的でさえあったことが、しかし社会的にどういうことを意味していたかということは論じられることがなかった。私には時代や社会が求めていなければ白井晟一という建築家は存在し得なかったと考えるようになっている。
 
 前川國男、丹下健三という両巨頭を筆頭に展開していた戦後の建築界で、主流となったモダニズムやインターナショナルスタイルの対称軸として白井が捉えられたのも、かれが声高らかに近代主義批判を展開したからではない。実際かれはそのような論陣を張ることはなかった。むしろ単一な思想だけで流れることに対する危惧が潜在していて対称軸が求められていたから、先ずそれがあって、そこに格好の建築家が現れた、という順序の方が相応な見方であろう。そういう役を担うようになったのは、そのような役が必要とされたからであり、突出した個性がそのような役をつくりだしたからではない。多くの白井晟一論はしたがって入口で終わってきた。白井というような存在を育てさえした時代や社会への視線を欠き、解析しなかった。求められていたのは白井晟一というような建築家を生んだ時代と社会への視点だった。

 その効果もあって、戦後の建築家の中でも、白井は今この時代最も遠い存在になっているかもしれない。しかし興味深いのは、白井晟一展がわずかに開いた場の周辺で表象されてきている論説のなかには、明らかに30年まえとは異質な解析や論考が展開されてきている点である。叙述される歴史に本来求められる批判的な知をベースに、ようやく歴史を活性化する対話の存在が見え隠れする。 

23:24 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
「バルバロパ」

 

           2011年9月16日のブログから 

 

 

「白井晟一全集」の別巻で白井のエセーを集成したときもそうだったが、昨年「無窓」の復刊に際しても、「縄文的なるもの」の冒頭部分に出てくる「バルバロパ」という言葉が話題になり、編集者にもいろいろ調べてもらったが不明で、バルバロイの間違えではないかという意見もあった。しかしバルバロイでは文脈とも適合せず、また白井が遺していた改版にさいしての修正事項のリストにもなかったので元版どおりとした。

最近になって、たまたま読んだHeinz Demisch(ハインツ・デーミッシュ)の「Vision und Mythos in der modernen Kunst、1959」(邦題 現代芸術の原像 ヴィジョンと神話 佃堅輔訳 法政大学出版局、1978)で、「バルバロパ」について論じられているのを偶然発見した。

「バルバロパ」とは、1947年にベルリンでハインツ・トレェケスによって描かれた1枚の絵の呼称だった。同書にはピカソの『アヴィニョンの娘たち』、シャガールの『セーヌの橋』、マルクの『チロル』とならんで巻頭の口絵として掲載されており、『バルバロパ』が同書の主要なモチーフを支えているものだということがわかる。デーミッシュはその絵を次のように描いている。

「砂漠のような石だらけの丘陵の背後に、灰紫色の曇った空が貫きがたい壁のように高くそびえている。その前には、ひどくくいつくされた牛の一箇の頭蓋が空中に突き出ている。その崩壊してゆく、死の実体を垂直に立てて支えている力は、その大きさと同じほど不可解で未知なものである。頭蓋冠の褐色がかった紫のあいだの毒々しい緑色の線によって、腐敗してゆくプロセスが描かれているようにみえる。髑髏の下には、石のかたまりが、右側にむけられた雄牛に身体のように形づくられてそびえ立っている。髑髏は、石に凝固されること―そしてすでにまた崩壊してゆくこと―を待望する象徴であるかもしれない。植物のない砂漠、薄暗い光、腐敗と凝固とのしるしが結合して、希望のない死滅のイマジネーションとなっている。」

このようにデーミッシュによれば『バルバロパ』は「あらゆる生命力を奪われた場所のイマジネーション、死をになう頭蓋の場所のイマジネーション」である。頭蓋と化して荒野に晒された雄牛は、神話的見解によれば生殖力や生命力を象徴するものであるばかりでなく、ヨーロッパ世界の創成に関わる神話的形象でもあった。

絵画『バルバロパ』はその背景に「1845年以後のドイツの日常の中に存在していた暗い不安」を背景としてうまれたものであり、神話的な雄牛を頭蓋として描くことによって、ヨーロッパ世界の頽落を描いたものと見ることもできる、と指摘されている。

本書では「バルバロパ」の語源については直接には触れられていない。白井が「縄文的なるもの」を書いたのは1956年だから、この絵画を知っていたか、あるいは念頭においていたかどうかは微妙である。しかしエセーの中で白井が用いた「バルバロパ」が、絵画『バルバロパ』で象徴的に描かれたようなヨーロッパ、と書く代わりに用いられたものであることが、文脈に照らして推測出来るのである。

それにしても、「縄文的なるもの」の一年まえに発表された「原爆堂」に、トレェケスの『バルバロパ』とどこか繋がるアスペクトを指摘することが出来るとしたら、それは2つの表現の主体となったものが背負っていた暗さと希への強い思いに関わるものであろう。あるいはまた、日本の近代(主義)建築史の文脈では逼塞してしまう白井の思想と建築が収まるべき文脈を示唆することにもなるだろう。



 

22:24 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
『白井晟一全集』と宮嶋圀夫 1

 『白井晟一全集』(1988-89)を企画したのは宮島圀夫さん(1930-1987)である。当時私は白井晟一の遺した建築設計図を全て公開する主旨で図面集の刊行を企画していた。一方、宮嶋さんは『世界建築図集』や『現代建築/空間と方法』を企画編集して出版した京都の同朋舎出版との交流が続いており、『白井晟一全集』をその同朋舎から出さないかと相談を受けた。二つの企画がドッキングする形で図面を中心に建築作品及び装丁、エセー、対談とインタヴュー、それに宮嶋さん企画の「白井晟一の眼」を入れて構成することで同朋舎出版の担当者も加わり、全集の大まかな出版計画はすぐに決まった。戦後日本の建築家で「全集」というような形のものは初めての企てだったと思う。この企画を実現させたのは宮島さんの建築ジャーナリストとしての情熱と使命感だったが、単に建築作品の写真を集成したり識者と言われる人々の解説や評論を集めるといったものではなく、白井には建築のほかに評価のあった装丁やエセーあるいは書が遺されており(書は収容しなかったが)、何よりも建築設計図やパースの精細さや表現力がよく知られていたことが、単なる建築作品集ではない図面を中心とした全集という形の企画に繋がったように思われる。

 『建築雑誌』の1977年12月号の「建築ジャーナリズムと私」の中で宮嶋さんは次のように書き留めている。同じ建築の学校を卒業した友人の矢向敏郎に誘われて建築の雑誌『建築情報』の編集部に入った宮嶋は「毎日失敗の連続で社長には連日罵声をあびせられるし、閉口ばかりしていた。そのうえ、雑誌に掲載される作品は、口はばったい言い方だが、二流以下と私には思われた。――この時代、私の心にひびいてこない建築、とくに近代建築に嫌悪すら感じていた。――そのような時、だれが取材してきたのか、ある写真を見せられて、はっとした。そこには人間くさい美しさというか、何か光り輝くものを見出した。矢向君も、まして私には聞いたこともない建築家の作品であった。二人はこのような美しい作品を作る建築家の顔を見にゆこうではないかというので、のこのことその自邸を訪問したのであった。

 大きな切妻の、未完成らしい住い。その大きさ――スケールの大きさではない――に圧倒されながら、おずおずと玄関の扉をたたいた。「ヤー、オゥー」という声とともに、四十年配の偉丈夫らしい人物があらわれて、たいして来意も聞かず室内に通されてしまった。その人が白井晟一氏であったのだ。そして、しばしば白井邸を訪れることになり多くのことを教えられた。これが建築に目を向けるきっかけにもなり、その後の私を大きく支配したように思う。それは物の見方、事物に対する判断、といったものでもあったのだが、一番印象に残っているのは、その頃の白井氏がもっていた烈々たる気魄であった。」川添登氏は白井の建築作品を最初に取り上げたのは自分ではなくこの宮嶋氏だったと述べているが、しかしそれ以前に雑誌『建築世界』などに「歓帰荘」や「河村邸」などが掲載されていたのでそれも正確ではないことになる。いずれにしてもこのころすでに川添と白井の交流は始まっており、宮嶋は間もなく白井の紹介で川添が当時はまだ一人で切り盛りしていた『新建築』の編集部に移った。それから一年後に平良敬一さらに一年後には宮内嘉久が加わり、宮嶋によれば社内の「熱気は倍加していった。」然しそれから4年後の1957年には「村野藤吾設計の読売会館(そごうビル)の取り扱いをめぐって」社長と対立した編集部四人全員が解雇されてしまう。

00:36 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
栗材の風雪—すやの改造に寄せて

 栗材はときになぐりの中柱や框として使われることはあっても、数寄屋を中心とする伝統的な日本建築の主要な役割を演ずることはなかった。耐久性にも優れ水にも強いことは知られていても、杉やヒノキ中心の針葉樹文化の中では扱いにくいめんどうさばかりの目立つ素材だった。短く切って鉄道の枕木にしたり井戸の井桁にするのが主な用途だった。性質が強いばかりでなく豊富に含まれたタンニンはやがて時とともにつやのある褐色をもたらし深い味わいを生む。あるいは桐にも似た品のよい質感を高く評価して、数寄屋の伝統を克服する創造的な日本建築を晶化させるために建築家として積極的に用いたのが父の白井晟一だったが、その作品を通じて私にも馴染みの深い素材だった。

 栗は言ってみれば辛口の素材である。そっけなく剛毅の気質に富んでいる。人に媚び時代に媚びることを疎んずる心情にこれほど心地よい厳しさと静かな安心の感応を誘う木材はないと思われるほどである。品位ばかりでなくつよい野生の共存するところに尽きない魅力がある。人工的なものへの理性を逸脱した思い上がりを怪しむことも知らない世界に対しては反骨無双の素材である。

 改造の話があってすやの建物をあらためて見ると、たしかに処々にいたみが目立ちファサードの水平もかしいでいる。朽ちていくもののもつ宿命的なわびしさはいかんともしがたいとはいえ、そこにしかない唯一の店構えとして長い時間風雪に耐えて生き続け、胸を張って使われていることにより、けれんみのない存在感が生まれていた。前面道路の幅員拡張という市の決定がなかったら、本当に朽ち果て崩れ落ちるまでそのままの形で維持されることを願っていただろう。

 私に課せられたのは建物が時をこえて保持してきた気骨と、いたずらに梲(うだつ)を上げることに腐心しようとはしない分別を基盤にもつ楚々とした構えをどう生かすかということだった。ご主人をはじめとするすやの方たちと話を重ねるうちに、そうした気骨と理性を人として現実に生きておられることがおのずと知らされた。もとより時代の流行や通念との付和雷同や迎合からは遠く、家と店の伝統をいたずらに建物の表面的な形に託して固執されることもなく、受け継がれそしてみずから生きてきた空間に対するおおらかで揺るぎない愛情、自然な自覚に、私はただ啓発されることさえできればよかった。その人と空間の中で、二百有余年守り続けられた建物の改造を栗材で実施することに迷いはなかった。

 私に改造設計の話をもちかけられたのは、大切に思っていたすやの建物が壊されるのをわが身のことのように心配された木工家の早川謙之輔さんである。私が設計に関わっていた石水館(静岡市立芹沢げ霹術館)で三百坪余の楢の木天井を、製材、乾燥、加工まで引き受けて張り上げられるのを目の当たりに見て以来、木に対して体を張って生きてこられた経験と力量、真摯な姿勢に敬意を表してきた私にとっては、その意味でも最初から気の張る仕事だった。早川さんはヒノキや楢とともに栗を大事な素材として使ってこられた。十四年前すやのファサードの中央に設けられたウィンドウも、その他のケースもすべて栗材で作られてきた。私が栗材を選んだのもいざとなれば早川さんの指導や助力を得られるという安心が働いていたことは言うまでもない。秋の新栗の栗きんとんの発売に間に合わせなければならないという早急なスケジュールの中で、棟梁の大脇正さんたちは解体を進めながらも良質の栗材を集め、手鋸、手鉋で入魂丹念に施工を実施された。ウィンドウのスクリーンは浅野厚子さんにより栗皮を使った草木染である。

 天然の味わいと甘みをやさしく心楽しい菓子に作り上げられる仕事も全く同じなのだろうと思うが、栗材を用いたすやの改造も、人としての出会いと、敬愛と信頼に導かれた作業の中で初めて可能であった。それでなければ生まれ育ちようのないもの、時に耐え時に動ずることのないものを今あらためて見つめたいと思う。

 

 

(今年も栗の季節になった。書類をかたずけていたら1985年に木曽中津川の栗きんとんの著名な老舗「すや」を改造した

 時に、すやの方に乞われてパンフレットに書いたものが見つかった。)

 

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時を刻むもの(1982.11.)

 

 1982年11月の『白井晟一研究 検戮寮酖催仍瓩縫ぅ鵐織凜紂爾靴拭崚々居と虚白庵の間」をチェックする必要があり久々に手に取った。その中に塩屋宋六のペンネームで本のの後記として書いた拙文を見つけたのが以下である。推敲してすこし改めた。36年前のものだが考え方はそれほど変わっていない。成長していないということか。

 

 時計の刻む「時」が、一日のうちの時分秒という時の符号だけでなく、人間の営為を刻印する逃れようのないものの実存の符号でもあるとしたら、それは過ぎ去っていく「今」が、絶え間なく生成する過去とのとぎれのない連続によってはじめて今の「時」を得ているという理解を前提とするものであろう。そのような時計はだから一瞬たりとも休止することのなかったという連続性を保証するものでなければならず、どのような異変や変動に見舞われても途切れのない運動の連続性を失うものであってはならない。それにたいして、時を分け、緩急変化をつけ、取捨選択、強調、推理、あるいは忘却、そして抽象や概念的な普遍化などの作為によって成立する歴史という解釈を、凌駕ときには解体するだけのリアリティーを持つものであり、歴史は空白や間断を許さないそのリアリティーに耐えうるものでなければならない筈である。

 しかしわれわれの歴史は恣意にとめられた時の空白が、歴史のリアリティーを著しく損傷しているにもかかわらず放置されたままであることが少なくない。日本の現代建築の歴史では「戦後」はいきなり瓦礫に埋もれた焦土の復興からはじまって、戦後をもたらした戦争という「時」はきれぎれに鈍い音をあげているか、あるいはまったく時を刻むのを止めてしまっているようでさえある。戦後40年にも至ろうとする時の流れの中で、戦争と建築家のかかわりを示すさまざまの事実は瓦礫の下に埋め込まれ、戦前と戦後を間断なくつなぐことによってはじめて成立しうる歴史のリアリティーが回復されることもなく、血と硝煙の経験を個人の閉鎖的な記憶のなかに封じ込めてきた。

 「建築の世界で建築家の戦争責任はどうなっているのか」というある文芸評論家の、言葉だけとってみればいささかドグマティックな問いかけが伝えられてきた。それは侵略や戦争に向かった帝国主義の国家体制と直接かかわった特定の建築家だけをとりあげて問うものではなく、戦争に向かった体制社会の中でとられた建築家としてのさまざまな行為や姿勢に対して、自らを含めてどのように自覚的に捉えられてきたかという問いとして捉えるのでなければ意味はない。

 教科書問題をきっかけに政界や官界ばかりでなく知識人、文化人と呼ばれている人々の示したものを見れば、戦争とその時を歴史に刻印するという基本的な作業と、そのうえではじめて可能なはずの、戦争とそれを準備した戦前から戦後を画しうる思想というものの希薄さや未成熟はひとり建築の世界にとどまらないと言えるが、国民の固有で共通のテーマを戦後求めながら十分に展開させることも説得力をもった提起を発信することもなく、むしろそれらを拡散さらには解体するさまざまの仕組みや論理に迎合して、現代建築を文化の領域として定位することも、自立した論理を発展させることもなかったのではないかという桎梏から解放されるものではない。

 経済高度成長の爛熟期の中で、建築の種々の問題が思想なき論理や概念に落とし込まれたのも当然の成り行きであったのかもしれない。その無思想性は経済成長の浮かれた世界ではけだし不快なものとはい言えず、むしろ建築と思想の片寄った野合から生まれる奇形をはらませることがなかったのは幸いであった。しかし歴史の大きな節目に切断や空白を残したまま語られる論理が、押しつけられた仕組みや思考を改革する資質にも、現象から表現を自立させるしたたかさにも欠けたものであったことは拭いようのない事実として認めざるを得ない。

 時計の告げた「今」が、過ぎ去った時との連続を保証するものでもなく、目につく他の時計と同じであることによってしか告げられた時の正しさを立証できないということは、その時計の告げる「時」の実在感を極めて希薄なものにしてしまう。何かあればまた止まって途中を飛ばしてしまうかもしれない不安を抱えた時計は、たまたま今の時刻を確認できても、それがもしかしたら数十年前、数百年前のその時刻であるかもしれないという疑いから自由になることはないのである。

                                                     白井磨

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