遥かな時の彼方へ

 究極のコーヒーはわきがのにおいがすると聞かされたことがある。わきがが実はいい匂いだという話ではない。においというものの不思議の話である。残念ながら私はそういうコーヒーとまだ出会ったことはないが、モカ種の豆のように軽い酸味がコーヒーに妙味を与えていることをおもえばあるていど想像することはできる。

 わきがの強烈さには及ばないが、ドクダミのにおいのするコーヒーに魅了されていたことがある。ドクダミはなぜか汲み取り口のある湿った地面に群生していて独特なにおいを放っていた。ご不浄とよばれた便所のにおいを消す働きをしていたのかもしれないが

便所という場所を連想させるにおいでもあった。

 友人がもってきてくれたそのコーヒーを丁寧に淹れて最初に口にしたときは、おそらく落語の「ちりとてちん」の若旦那のように目を白黒させていたにちがいない。かなりの深煎りでトロッとしており、口に含むとドクダミのようなにおいが鼻から抜けるのである。しかしこれが次第に病みつきになった。焙煎している店主に電話でたずねると豆の種類は教えてくれなかったが、通常の何倍も時間をかけてじっくり焙煎するのだという。ドクダミのにおいが好きになったのではない。辛抱強い焙煎によってコーヒー豆の芯からひきだされた独特な芳香のする味わいに魅了されたのである。たいていのコーヒー豆は長い焙煎に耐えられない。焦げ臭を生んでしまうのだ。焦げ臭を出さずに濃厚な香味をひきだすには火加減ばかりでなくそうとうな辛抱と技術がいる。店主は手ごたえを感じていたにちがいない。しかし何年かして手間と時間がかかりすぎるからと作られなくなってしまった。

 その後も方々で似た焙煎豆を探しているが、軽さを求める時代の嗜好のせいもあるのか、箸にかかるものとさえ出会わない。技術主義が瀰漫する社会でありながら、マニュアル伝承の可能な技術ばかりで、鍛錬と経験がなければ成立しない技術には冷淡であるどころか、それを味わい楽しむ力さえ失いかけている。感性の委縮は文化の衰退に通じる。長年の試行錯誤を経て、豆を熟知する職人だからこそ彷徨うことになる匂いの迷路は、良し悪しの単純な区別など寄せつけない芳香と悪臭の入り混じる場所である。

 人が体から排出するものはたいてい悪臭の対象とされるが、他人の発する悪臭には我慢がならなくても、自分のものには愛情さえ感じるのが人という勝手な生き物である。この自と他の間に発生するズレがにおいの感じ方を複雑で不思議なものにする原因の一つかもしれない。

 さきほど触れた「ちりとてちん」は食通気取りの若旦那に腐った豆腐を舶来の珍味とだまして食べさせ、かれが目を白黒させながら「これは、どうも、乙だね」と言って見えを切る姿を笑いものにするというよく知られた落語だが、「腐豆腐」は実際の珍味として存在していた。発酵臭も腐臭の一種だろうが、納豆のようにそれを好まないあるいは不慣れな者には異臭や悪臭と感じられる。クサヤの干物や鮒ずしのにおいは強烈だがそのにおいの正体はくせの強いチーズのようでもあり、魚なのにチーズのにおいがするというミスマッッチが異臭と感じさせてしまう面もあるだろう。ナポレオンの逸話にもあるように、チーズのにおいはしばしば性的な連想をさそうものだった。排泄と隣り合う生理に関連したにおいであり、人を虜にするにおいの一つである。

 よく熟れて外皮がつぶれた銀杏のにおいはずばり糞便だが、それにも臆せず、地面の中で腐らせたり水洗いして熱を加えれば居酒屋の定番になる。異臭の残り香も風味に変わっている。味やにおいにたいする欲望は滑稽なほど際限がない。

 かくして人を惹きつけるにおいや香りは悪臭と紙一重であり、排泄を含む自分自身の生理と深く関わっているということは間違いなさそうである。生命そのものの矛盾や不思議を直接反映していると言うべきか。ヨーロッパの古典的な美学は味覚、触覚とならんで臭覚を低級な感覚としておとしめていた。お前たちは絵画も音楽も生まなかったではないかということなのか。ある哲学者はそれにならって、味覚と臭覚によって認識に歪みが発生したのだと言う。唐変木め。認識に歪みを発生させるからこそ素晴らしいのだ。においの、生命と直結した強烈な底力と奥行を低く見積もられてたまるものか。

 

 草むらに大の字に横たわり目をつぶる。草いきれが鼻をつき、悩ましい思いや不安で一杯だった青春の時へと連れ戻される。恋の甘く切ない感情が蘇って胸を締め付ける。

 頭で記憶をたどるまどろっこしさもなく、においはその香りの思い出の空間へと瞬間移動を実現する。「においはタイムマシーン」だと言ったのは私の父だが、ベルリンに留学していた時に、借りていた下宿にしばらくかれが滞在した時の言葉である。着いて間もなく探しているものがあるからと言って買い物に出かけた。いくつかの化粧品店でオーデコロンの蓋を開けさせ匂いを嗅ぐ。意外に早く見つかり、ヘアートニックや石鹸なども購入し、一週間が二週間にのびた滞在期間中つかい続け、かれの部屋にはその匂いがしみこんで、去ってからも長いあいだ消えなかった。

 オーデコロンの名前はサン・スーシーという当時は東ベルリンにあった城の名前をとったもので、とくべつ高価なものではなかった。白檀のような香りを含んだすこしオリエンタルな匂いである。それから三〇年あまり、奇妙な置き土産として私の手元に残った一本の「サン・スーシー」の香りは、蓋を開けると今でも、ベルリンのあの空間とそれに連なる日々の思い出を一気に蘇らせる。タイムマシーンのように遥かな時の彼方へ。人の不思議に根ざした、匂いの魔術である。

                                                      白井磨

 

(香りの専門誌[パルファム]「匂いの随筆」2011年6月 No.158  所収)

02:09 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
取るに足りない建築家の言葉

 「白井晟一と原爆堂の背景 下」では井上章一氏の論考「大東亜の新様式」をきっかけにして「原爆堂計画」の問題への展開を試みた。この論考はかれ自身が後記で書いているように建築界からは大分強い批判を受けたものだったようだ。しかし今頃になってあらためて部分的にとりあげたのは、この論考にたいする私の関心が,建築界からの批判とは少し位相が違っていると思ったからだった。一言でいえば、建築家と「言葉」の問題をどう捉えるかという点に関わっている。

 私が引用したフレーズは次の部分だった。「この企画は、後世から戦争協力の例として位置づけられる。そして、確かに、この企画にコミットした建築家たちは、大東亜戦争を賛美した。しかし彼らは、ただ賛美しただけである。戦争行為に関する具体的な協力は、なにもしていない。いや、むしろ非協力的だったとさえいえる。戦時下の建設活動に背を向けて、空想図面を夢に見る。この姿勢は、ありていにいって、戦争から逃避しているもののそれにほかならない。」

 「この企画」とは戦時中、岸田日出刀が「共栄圏内の各地要所に建設して、大東亜諸民族の今日の栄光と覚悟とを永久不滅のものたらしめようというのである」と言って、建築学会が行った「大東亜記念営造計画」コンペのことである。井上氏の主張はそれが、しばしば批判にさらされた「戦争協力」の対象となるようなものではなかったという点にあった。ただ調子を合わせて賛美しただけで戦争協力などと言われてはたまらない、と批判された人々にかわって弁証しているようにも見える。そこまでは納得するものも少なくなかっただろう。

 「ただ賛美しただけ」で「具体的な協力はなにもしていない」と言うのは何を意味しているのだろう。言論界では太平洋戦争賛美の言説に対して、戦後激しい批判が繰り返されたのは、それが「言葉」を専門とする領域であったからで、建築家を同じレベルで捉えるのはおかしい、いや間違っているという考えがこの主張の前提になっていて、言論文化人の言葉は武器ともなるが、建築家の言葉は取るに足りないと言っているのだろうか。

 いずれにしてもこの論からは、具体的に社会に影響を及ぼすものでなければ歴史の対象として論じるようなものではない、という考えが伝わってくる。問題は何が具体的であるのかという判断にゆだねられる。

 戦後を生きるものにとっては当然ながら、戦争は過去の歴史として記号化され、現実の生活との具体的な関係の中で捉えられる。戦中と戦後という表面的には分かりやすい線引きは指標としては便利だが、社会がそこで根本的に変わったわけではない。戦中が今の時代と無関係だというわけにはいかない。侵略的な性格をもった戦争に協調し賛美することが、戦争が終われば平和主義に替るということは戦後の日本では普通の一般的な現象であった。時代や政治に翻弄されて生きる一般市民にそれ以外なにができるだろう。しかし新しい時代や社会を主導する立場にいる者の、その主張や考えが何を根拠にどこから生まれてきたものなのかと言う点が、その主張や考えと無関係ではありえない。アイデンティティーとはそのことと関わっている。そこに否応なく共有した戦争という経験があれば、その経験と正面から向き合おうとしなかった言葉を信頼することは難しい。井上氏の批判から建築家の言葉は言論界のそれと比べても、取るに足りないもの、と読み取ることが出来るのは、今日の状態を見れば、読む側にそれを明確に否定することが出来ないからである。                                                       白井磨

21:46 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
白井晟一と竹内好 ユーラシアとアジア
 中国文学者竹内好(1910-1977)はヨーロッパ的原理とアジア的原理の矛盾と相克を日本近代のアポリアととらえ、それと向き合おうとしない戦後の文化を批判しつづけた。竹内の中国への関心と深い造詣、そして敬愛は、日本の近代を相対化してとらえる明確な視点に導いた。
 白井晟一(1905-1983)の場合は青年時にギリシャ哲学や近代哲学に親しみ、ドイツ留学時にはヤスパース、シュプランガーなどから学んだ経験をとおして、ヨーロッパは早くから学習の対象であり、また自己形成の糧となるものであったが、それがかれの日本の近代を相対化する思想の背景になった。しかし建築家としての初期の文章「華道と建築」(1951)「住宅思言」(1953)「縄文的なるもの」「豆腐」「めし」(1956)で述べられているように、白井はヨーロッパ近代を規範としてとらえることはなかった。そこで展開したのは日本文化の伝統の底から卓越した独自性を導き出そうとするものだった。また前記の文章にさきだって書かれた「天壇」「中国の石仏」は戦後の近代建築を担う世界では珍しくアジアへの視角を明確に示すものだった。
 「中国の石仏」では雲崗、竜門の仏像をとりあげて「西欧的美的完結性への偏執から解放」する「それらとは全く異種な」内的表現を指摘して称揚した。そして「シュペングラアの卓説に傾聴するより、タゴールの東洋的矜持を身につけることが難しいというのは筋の通らぬ話ではないか」と西欧文化への偏った傾倒と東洋文化理解の低調を批判している。
 早くに父親を失い、転々と居を移す義兄の家に身を寄せていた白井は、そのつど学校を変えねばならず勉学の集中に苦労したと話していたことがあるが、足してあわせれば長かったのは生地の京都であり、京都や奈良の仏寺を見て回ることも多く仏像にもつよい関心を抱くようになった。ガンダーラや北魏の仏像への一貫した趣向と情熱もそこから育ったものであろう。白井が「中国の石仏」を寄稿した「新建築」の1955年の10月号の表紙にはかれの提案で竜門石仏の仏頭の写真が使われており、建築雑誌の表紙として珍しい。(白井の3つの役場がこの巻で紹介されており、雄勝町役場はまだ計画の段階だった。その後建設されるが白井の計画とは大幅に異なるものになった。)
 晩年の白井はユーラシアという表現をすることが増えるようになる。東洋と西洋を対立軸としてとらえる観念的二元論を退け、ヨーロッパ、イスラム世界、東アジア、中国大陸、朝鮮半島、そして日本を、連鎖する繋がりの中で、ユーラシアという一つの空間世界でとらえる。それは太平洋戦争時、アジアを代表する唯一の近代国家と自負した日本が、「近代の超克」で見られるように、欧米を超えようと戦争を理念化した思考や意識を深く領有していた観念的二元論を克服する意志にも通じている。
 白井は竹内と異なり、このように西欧とアジアを矛盾相克するものとしてはとらえず、竹内の言うアポリアを共有することはなかった。竹内が戦後の日本でこそ根源的な問題として表れているという認識を示した「近代の超克」問題は、白井には最初から存在しなかったように見える。専門領域の違いだけでなく思想傾向の異なった白井と竹内が、戦後日本の近代主義に対する批判においては共通する点が少なからず見とめられるのは興味深い。

                             「白井晟一と原爆堂の背景 下」備忘的補遺  白井磨
01:30 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
シリーズ「白井晟一の建築 后廚隆行予定について
                 シリーズ「白井晟一の建築 后廚隆行予定について

2011年の「白井晟一展」を受けて企画をはじめ、2013年の5月から刊行をすすめていたシリーズ「白井晟一の建築」の予定した最終巻「白井晟一の建築 后廚錬祁酥召个鰺縦蠅靴討い泙后タイトルは「和風の創造」です。なおシリーズのEXTRA巻として企画してきた「原爆堂」は2017年に「晶文社」から発行予定です。以下は「后]舵の創造」のコンセプトです。
 

 白井晟一は「創造」の問題として日本の「伝統」を積極的に論じている。その伝統論は「伝統」を典型や様式でとらえるのではなく、日本文化の独特な原思想ともいえる潜在的な能力に目を向けるものだった。伊豆の江川邸に縄文的なポテンシャルを見、「豆腐」に「渾然とした調和」の完全な単純を、「めし」には共同体を支える犠牲の「愛」を見る。閑隠席のような「簡素」の創造に日本建築の真髄をとらえるが、その一方で利休の数寄に「私的価値に釘付けした錯覚や虚栄の原型」を見、「私」に収斂する「好み」の美学を退けた。
 日本の近代建築はヨーロッパとアメリカからの輸入である。太平洋戦争の敗戦を経て戦後の日本ではそのような欧米の近代建築がめざましく発展した。かれの伝統論にはしばしば欧米の近代文化への追従と模倣に対する厳しい批判がともなっている。白井にとってヨーロッパはギリシャ・ローマ以来の全体としての空間であり、同時代としての近代はその中で対照化される。それは学ぶべき世界であると同時に、たたかい突き抜けなければならない壁として意識化された。
 日本の伝統文化に内在する独自性と卓越性にたいする理解は揺るぎがなかった。幼年時代の禅宗と書の経験が壮年期に入ってからの仏教の学習や書の鍛錬にあらためて向かわせたのであろうが、そこから日本文化の伝統の底にあるものへの関心や理解もさらに開かれたのではなかったか。かれの「和風」の特徴は伝統の近代化や伝統の継承ではなかったところにある。目指されたのは「日本的創造」としての「和風」であり、「豆腐」に見たような、あらゆる部分が緊密に結合して「渾然とした調和」に全体が統一される空間だった。

 本シリーズの「塔」「水」「自邸」「初期」とならんで白井の建築を解析するキーワードとして「和風の創造」をとりあげた。


(なお解説は前巻の続編として、戦時下の3つの座談会などをとりあげ、彼自身の伝統論を含め白井の「原爆堂」の意想の背景となったものを追います。)


 
17:36 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
広島発「原爆堂計画実現基金」
 先日11月20日JIA広島地域会の主催するトークセッション「被爆建物と原爆堂計画の未来」に参加させて戴いた。会場は村野藤吾設計の広島平和記念聖堂だった。オルガンの演奏会のあと、岡河貢氏の傾聴すべき講演があり、そのあとひろしま未来協創センターの木原一郎氏と白井に岡河氏が質問する形で進められた。ここでご紹介するのはトークセッションの内容ではなく、その際配布された広島地域会のいわば宣言文である。

                                    原爆堂計画実現基金
                                         設立主旨
 
 私たち広島で建築設計活動をする建築家にとっては広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。被曝70周年の本年、核兵器の脅威が風化する中であらためて、未来の世界の永遠の平和への宿願である核兵器廃絶という人類の安全保障のために、私たち広島の建築家が未来にむけて何をするべきかという答えとして建築家・白井晟一の残した原爆堂計画の実現にむけて基金を設立し募金活動をすることにいたしました。
 原爆堂計画は1954年南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁において実施された水爆実験に衝撃を受けた建築家白井晟一が1955年に核兵器の存在を人類に建築造形を通して問いかけることで、人類の共存の希望を願うメッセージとして発表されたものです。白井晟一はこの計画の実現を夢見ていたのですが未だにこの計画は実現されていません。私たちJIA日本建築家協会広島地域会は建築家白井晟一の夢を引き継ぐことで、いつの日か原爆堂計画が実現され、人類が核兵器の廃絶された世界で共存することを希望して、原爆堂計画の実現にむけた努力を被曝70周年記念に被爆地である広島で開始いたします。
        2015年11月20日 JIA日本建築家協会中国支部広島地域会

 注目すべきは、冒頭で述べられているように「広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。」というような社会や文明に対する明確な建築家としての自覚と意志を表明するといった、戦後の日本では稀有な宣言が行われたことである。そして地域の歴史と経験に根差したものであるからこそのアクチュアリティーが、核兵器廃絶という問題の普遍性をとおしてどこまで広がりを獲得していくことができるのかという点である。
23:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
シリーズ「白井晟一の建築」第4集について
                     
                   白井晟一の建築 検―藉の建築

白井晟一の半世紀にわたる建築活動のほぼ中間地点に原爆堂計画と善照寺がある。本集はそこにいたるまでのいわば前期の作品を「初期の建築」として構成した。
「後期の作品」にたいするコンセプチュアルな評説や私小説的理解を今日的な正確さでとらえ直すうえで「初期の建築」にたいする率直な視線が欠かせないものとおもわれる。白井の作品全体に流れる一貫性と時代を反映した変化に目を向ける場合も同様であろう。
原爆堂と善照寺にいたる「初期の建築」を用意することになった白井の経験としての「歴史空間」をおしはかる資料として「白井晟一と原爆堂の背景」を解説として付した。

目次
        
歓帰荘 夕顔の家 秋ノ宮村役場 浮雲 土筆居 小平の家 知宵亭 煥乎堂
アトリエNo.5 アトリエNo6 試作小住宅 原爆堂計画 松井田町役場 雄勝
町役場 善照寺

解説   白井晟一と原爆堂の背景 上  白井磨
資料1 「住宅思言」「秋の宮村役場」 白井晟一
   2 「秋ノ宮竣工式スピーチ」 白井晟一
     3 「白井晟一の空間」 吉中道夫 矢向敏郎

A4変型 総頁112頁
発行所  めるくまーる
発行予定 2015年7月中旬
価格 1500円+消費税

         
15:47 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
三木清と戸坂潤
 このところ白井晟一が青年時代、特にドイツへの留学前後から帰国、そして戦争と終戦に至る時期に交流のあったあるいは接点のあった人々の書いたものや彼らについて書かれたものを探し出しては読んできた。白井は文筆を業とする仕事をしていたわけではないから当然のことではあるが、交流の内容や接点の性格は書き遺されたものは殆どないし判然としないことが多い。そこで彼らの書いたものなどから、僕が白井という人とその表現について抱いている理解と漠然とではあるが繋がりを見つけだして、そこから白井の思考や意想が置かれていた状況を探ることにした。そういう作業のなかで、歴史や思想史の世界では繰り返し研究され論じられてきている1930年代から第2次世界大戦、そして戦後という時代があらためて浮かび上がってきた。直接経験した時代ではないが僕にとっては隣接する身近の時代であるにもかかわらずこの時代に就いて恥ずかしいほどに無知であった。
戸坂潤については白井自身が川添登氏などに話したことが広く伝わっているが、交流の内容は殆ど語られていない。白井が留学から帰った頃戸坂はいわば畢生の仕事でもあり業績でもあった「唯物論研究会」を立ち上げ、烈しい弾圧のなかで「唯物論研究」を66巻と「唯物論全書」を発刊し続けていた。しかし白井はドイツでの反ファシズム学生運動にも参加し、当時はファシズムに対抗する勢力とみなされていた共産主義国家ロシアへの帰化を一時的にせよ考えていたと伝えられているが、帰国して戸坂との交流が再開された形跡はない。
戸坂潤が西田幾多郎と田辺元を慕って京都帝国大学に入学したのは一高の四年先輩の三木清の影響だったと言われているが、戸坂自身「三木清の影響で左傾(?)した恐らく最初の一人が私かも知れぬ。して見れば私にとって非常に大切な(?)先輩と云わねばならぬ」と記している。このコメントは西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎とならんで同時代の最も影響力をもった哲学者の哲学に対する批判の流れの中で書かれた「三木清氏と三木哲学」の中のフレーズだが、三木哲学を解釈主義と厳しく批判するものの他の三つの理詰めの論理的表現の表立ったものと違い批判対象者の人間性や性格などにも触れる戸坂には珍しいインティムな文章で書かれている。三木が留学からもどると待っていたように共に「研究会」を開いたり、ほぼ同時期に官憲に拘留され解放されると「プラトン・アリストテレスゲゼルシャフト」を共同して研究活動を始めたり二人の交流には特別なものがあったと思われる。
この時代ファシズムの権力体制による言論弾圧をかいくぐるように思想を表現しなければならなかった思想家や言論知識人の中にあって、この二人の対応の仕方は時には対照的であり、その哲学の方向性も異なっているが、「今日という歴史的現在」に正対する意識の強靭さにおいて共通しており、共に京都大学に留まることが出来ず、一時二人とも法政大学で教鞭をとるものの活動の中心は新聞や雑誌、書籍に寄稿する市井の文筆家、活動家だった。そして何よりも終戦を挟んで二人は相次いで官憲の手により殆ど惨殺され短い生涯を閉じなければならなかった。三木清48歳、戸坂潤45歳だった。
パリから帰国した翌年1926年、三木は京都第三高等学校講師となる。同じ年野戦重砲兵隊を除隊した戸坂潤は京都高等工芸学校の講師になった。第三高等学校と高等工芸学校そして西田幾多郎、田辺元、深田康算の京都帝国大学は互いに隣接していた。その時白井は高等工芸学校の21歳の学生で戸坂に兄事、深田に親炙し、おそらくはその後の道程を性格付ける要素がこの特徴的な小さな空間にあった。
16:41 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
仮題「白井晟一と近代の克服」序改稿
 以下はシリーズ「白井晟一の建築」(めるくまーる刊)の犬鉢垢僕縦蠅靴討い詈絃呂僚の部分です。本の発行は5月中旬を予定しています。(3月21日改稿)

 序

 白井晟一の「原爆堂計画」はコンペティションの応募作でもなく、また一定の発注者が前提されていたわけでもない。その点でも建築家による設計の形として特異な事例であったことはしばしば指摘されてきた。しかもその計画案はイメージのスケッチやコンセプトの標榜といったレベルに留まるものではなく、数点の基本図面と極めて精緻なパースによって、見る者に具体的な建築物のイメージを提供するだけの密度と明確な建築的内容で構成されている。2010年から11年にかけて高崎、東京、京都とそれに先行して東京造形大学で開催された白井晟一展では、会場ごとにコンセプトは独立していたがいずれも原爆堂計画が展示の中心に置かれ模型もはじめて制作された。「原爆堂計画」を抜きに白井という建築家を伝えることは出来ないという意識が開催者たちに働いていたからである。この展覧会のさなか2011年の3月11日、東日本大地震と津波が襲い被害が広がるなかで福島原子力発電所の炉心が溶融しレベル7の深刻な事故が引き起こされた。事故による被曝や放射能汚染の脅威は日本のみならず世界を震撼させ、ドイツやスイスの原発廃止の決定を導いた。破壊した原発から放射線は気流に乗って飛散し、海洋を汚染することによって国内の問題にとどまらず、日本は唯一の被爆国から核の加害者の立場に立つことを余儀なくされた。大気と海洋の汚染は依然として止まらない。生活に突き付けられた核と人類、核と文明の深刻な問題に向き合うことなしには言葉も思想もアクチュアリティーを持つことの出来ないことが明らかになった状況のなかで、宙づりされてきた「原爆堂計画」のメッセージと意味がようやく問われている。

 1954年から始められた「原爆堂計画」は丸木・赤松夫妻の原爆の図の美術館として提案され、1955年春に新聞、建築雑誌に発表されたものである。しかしかなり早い時期に夫妻やその支援者たちとは袂を分かつ。原爆の図は広島、長崎の被爆者の凄惨な姿を衝撃的なリアリズムで描いたもので世界に巡回展示され反響を生み、被爆の悲惨と恐ろしさを広く知らしめた。そのこころざしに白井もまた共感を禁じ得なかったに違いない。しかし原爆堂の設計が展示機能を満たすことを中心に計画されたものではなく、計画案に添えられたコメントに「メモリーを強いる造形ではなく」とあるように、悲惨な悲劇を記憶する象徴的な装置として意想されたものでもなかった。コメントに示されているのは、人類の「共存」への願いであり、原爆のもたらした悲惨と核の文明に正対する視線の「目」となるような建築が意図されていたことである。(1974年の「無窓」では「悲劇のメモリーを定着する譬喩としてではなく」と改稿されている。)

 1945年8月広島と長崎にあいついで投下された原子爆弾は、日常生活只中の11万人におよぶ市民の命を突然奪い去った。さらに11万人を越える市民が被爆し苛酷な人生に追い込まれた。戦時とはいえ一般市民に対して未曾有の規模で行われた大量殺戮が人道上ばかりでなく国際法や毒ガス兵器を禁止するジュネーヴ条約にも抵触、違反することは明白であるにもかかわらず、依然として議論の域から抜け出すことができない。原爆投下の翌年にはアメリカはすでにマーシャル諸島沖やネバダなどで核爆弾の実験を繰り返した。1949年になるとソ連が加わりセミパラチンスクなどで核爆弾の実験を始める。1954年3月アメリカはキャッスル作戦と名を付けた水爆実験をマーシャル環礁ビキニ沖で実施し、日本の漁船第五福竜丸は航行禁止区域の外であったにもかかわらず乗組員全員23人が被爆し機関長は間もなく死亡した。付近の住民243人と観測班員28人も被爆したと伝えられている。大国の核実験は冷戦下とどまるところを知らず、実験海域を通過するマグロなどから大量の放射能が検出され国際的な反対運動の中で核の実験場は地下に移され、さらに続けられた。原爆の引き起こした悲惨な事実さえ核兵器の威力を実証するデーターとして核戦略のベースに包摂される。1953年アメリカのアイゼンハワー大統領は国際連合の演説で核の平和利用の推進をうたい、原子力発電所の建設に積極的に取り組むことを宣言した。ヒロシマ・ナガサキや核兵器の製造、実験から目をそらせる意図が含まれていたともいわれている。そして日本でも間もなく原子力発電所の建設が開始される。

 核兵器や核をめぐる国際社会の展開に危機感を募らせたバートランド・ラッセルとアインシュタインは世界的な科学者10人と核兵器廃絶を訴え、そのためのパグヲッシュ会議を招請する。ラッセル・アインシュアタイン宣言と呼ばれるこの宣言は「人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。」という認識を示し、具体的には核兵器を放棄する協定を求めるものだった。(第2回パグヲッシュ会議には日本の湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄が参加。後に核兵器の廃絶か、現実的な抑止かをめぐって分裂する。)この宣言が世界に向けて発信されたのは、白井が「原爆堂計画」を発表した同じ年の夏だった。大きな疑問は、人類未曽有の核兵器による凄惨な悲劇の経験をした唯一の被爆国で、世界戦争の経験を経て戦争の否定と民主主義の国へと大きく変革を進めていたはずの日本の状況の只中にいた建築家の中から、どうして特定の一人によってしか核の問題に対する建築表現を試みるものが生まれなかったのかということである。そしてその特定の一人がどうして白井であったのかということである。それを解く鍵がかれの、とりわけ太平洋戦争をはさんだ時代の経験の中にあるのではないかと考え、留学時代を視界に入れながら、帰国してから戦中そして終戦に至る期間に、白井が接点をもった人々の動向を通して白井にとってそれがどのような時代の経験であったのかを推し量るための資料にしたいと思う。そして後半ではその時代の建築家にとっての状況を大東亜建設記念営造計画や言論知識人との位相差などに目を向けて探りたいと思う。反戦か戦争協力かといった二元論的な戦争責任論から、やがて戦時を特殊化、例外化することによって育った形式主義的な観念論によって、戦時を自らの経験として自覚的に対象化するという作業は建築を含む多くの場面で消化不良に終わってきたように思われる。一方では開戦時の座談会「近代の超克」「世界史的立場と日本」をめぐる議論が今もなお繰り返し論じられているのが象徴的である。
23:57 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
メモ 読書計画
 1976,7年頃だったと思うのだが「白井晟一研究」の編集をしていて林達夫と白井晟一の対談を企画したことがあった。写真家の海老原盛樹さんの紹介で百科事典を担当していた平凡社の編集者に、当時百科事典の改訂のために時々訪れていた林氏への取次をお願いしたことがあった。
「白井晟一研究」に僕は「イロニー」という概念を使って白井の建築についての研究文を書こうとしてキルケゴールやジャンケレヴィッチからはじめて片っ端からイロニーについて書かれた文章を読みあさっていた。日本浪漫派をはじめほとんどがイロニー(アイロニー)をロマン主義的あるいは退嬰的、消極的かつ情緒的にとらえていて日本の研究者の論叢には納得できるものを見つけることが出来なかったが、唯一林達夫の「反語的精神」だけから学ぶことができた。そんなこともあって林達夫著作集などを買って準備をしたが、残念ながらこの対談は実現しなかった。

対談を企画しながら当時は林達夫という思想家について実はそれほど深く理解していたわけではなかった。4年ほど前虚白庵で開かれた白井晟一学習会(中谷礼仁企画 早稲田大学建築史研究室)で田中純氏がロースを引き合いに出しながら白井の建築のエッセイ性にふれているが、林達夫のエッセイとして思想を展開した精神構造は日本の近代的な知の文化を対象化するだけでなく、白井の建築家としての意想と言葉を解析するうえでも改めて学ばなければならないと考えている。渡邊和民氏の「林達夫とその時代」(岩波書店 1988)は林達夫と三木清、渡邊一夫、花田清輝などを中心にとりあげ、第2次世界大戦をはさんで展開した日本の知の文化の有様が論じられ、その中で1つの鍵になっているのが、日本人として日本を外から見る目と「知」の関係だった。
15:45 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
プリミティヴについて (資料 白井晟一)
 シリーズ「白井晟一の建築掘/紊糧術館」の石水館の解説でふれた「プリミティヴ」について、白井は谷川俊太郎氏との対談(1982年 『白井晟一研究検戞砲膿鴫修靴新舛馬世鯏験している。これは「白井晟一全集」では再録されているが他ではあまり取り上げられていない。以下はその一部です。

  60頁 
 ここは体制遵奉と創造的な批判精神相克のディレンマ釈明の場ではありませんが、いずれにせよこのままの専門家意識では「建築家のいない建築に住みたい」という痛烈な批判に対してどう答えられるだろうか。所詮、創造者として本然的自覚の貧窮という妾点をつかれてうろうろする姿しか浮かんでこないのではないかと身につまされるのです。
 建築、建築家というのは翻訳でしょう。もともと建築の歴史的経験も、したがってその論理的陶冶も西欧にくらべるとあまりに短い。文明開化以来、西洋文化に追いつこうというエネルギーと身を切るような努力、その成果は世界の歴史の中でも眼をみはらせるものだったに違いありません。しかし何度もなんども被虐の廃墟、革命の破壊をのりこえ、つくってはこわされ、つくってはこわされつづけた血のしたたる凄惨な経験がないということは、日本現代の文化の諸相に瀰漫するオプティミスティックでインスタントな性格をつくってきた大きな理由になっていると思うのです。
    
 中略

  62頁
 プリミティヴというのは、今ではいろいろな 創作世界の慣用語になっていますが、自然発生的な原型を漠然と想像しながら、結局は    様式論に還元、埋没してしまうのがオチのように思えるのです。
遠くは歴史の伝統的桎梏、近くて現代の物質的合理主義にゆきずまったネタ探しか、ようやく苦しい
創造論の文脈操作を支えるコンテキストにしかなっていないのではな いかと思います。これでは折角だが伝統回帰と異ならないし、もともと知的操作で凝縮晶化して根源的なものがつかめるなどと考えるような消極的な接木細工ではプリミティヴのエキスペリメントへの発展はのぞめない。
 プリミティヴというのは時間的にたとえ30世紀、50世紀あるいは歴史以前に溯り掘り起こしても、そこに原型があるというものではない。それは外にあるものではなく、自分の中で、生(なま)の感応によって創造のアニマをつきとめる他に青い鳥に遭遇する道は開かれないのではないでしょうか。 それは自己の中にかくれている創造的ポテンシャルのインスピレーションによってつかまえるしかないといえます。  


 蛇足ながら白井晟一が遺した対談は「白井晟一全集」(1988年 同朋舎出版)に殆ど集成しましたが、その中から大半が「白井晟一、建築を語る」(2011年 中央公論新社)に再録されています。この時の選択判断の意志や基準は明示されていないので不明ですが、全集では対談者の栗田氏の承諾が得られず掲載されなかった2編「詩と建築の原質」「建築と書」はこの対談集に初めて再録 されています。全集には掲載されているが対談集に再録されていなかった対談にも、今回その一節を掲載した谷川俊太郎氏とのものを含め貴重な内容のものがあり、以下の通りです。

      「西洋の壁」を突き破ろうとした建築家の哲学と作品:村松貞次郎 『Kitano Vision』 1969
     コンフリクトの発見:磯崎新 『白井晟一研究 機戞。隠坑沓
    白磁の壺:金両基 『白井晟一研究 供戞。隠坑沓
    詩と建築:    谷川俊太郎 『白井晟一研究 検戞。隠坑牽

また座談会には

    作家の側からみた建築家と建築の諸問題について:大高正人、丹下健三、徳永正三、林昌二、                   浜口隆一。 『建築文化』 1957.07.
    〈現代建築の在り方〉についての考察: Plan’70 『建築論リポート』 南洋堂 1970
    建築におけるヨーロッパ近代と日本との比較思想史的考察: 同上 1971
      NOAビルを語るー白井晟一、勝見勝両氏を囲んで:有泉峡夫、井上晃、大平恵一、坂野長美、
    竹岡リュウ一、浜口隆一。 『日本デザイン年鑑』 1975   

インタヴューには

    「創造の鼎−白井晟一氏に聞く 1973. 『approach』
    白井晟一の『教材コレクション』 聴き手:神代雄一郎 『芸術新潮』 1976.09.
    歴史へのオマージュ 1975.09. 『芸術新潮』 
       虚白庵随聞:『白井晟一研究機戞。隠坑沓
    『石水館ー建築を謳う』 1981 かなえ書房
    
があります。                                     
13:39 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)

Calendar

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>

Profile

Link

Entry

Comment

Trackback

Archives

Category

Search

Others

無料ブログ作成サービス JUGEM

Feed

Sponsored Links