加藤典洋と白井晟一

 晶文社刊行の『白井晟一の原爆堂 四つの対話』は最初に原爆堂計画というものを白井のエセーから解説する拙論「言葉と建築 白井晟一の戦後と原爆堂構想」をかわきりに、原爆堂というものを岡崎乾二郎「建築の覚悟」、五十嵐太郎「社会と建築家の関係」、鈴木了二「建築が批評であるとき」、加藤典洋「未来と始原の同時探求」の順に四人の方に語っていただいた原爆堂論、白井晟一論で構成されている。

 岡崎氏は2011年の「白井晟一展」にぶつけるように『美術手帖』の2及び3月号に「芸術の条件 白井晟一という問題群 上、下編」で原爆堂、ノアビル、懐霄館を中心に本格的な白井晟一論を世に問われた。五十嵐氏は2016年の建築人文学的な著作『日本建築入門 近代と伝統』で原爆や民衆などの章を設けその中で原爆堂と白井のエセー「縄文的なるもの」をとりあげて解説されている。鈴木氏は1982年に『白井晟一研究 検戮如岼貂の白いパンフレット 批評としての建築「」というタイトルですでに原爆堂を論じられている。白井晟一を論じる中で原爆堂について触れられることはあっても、原爆堂をテーマとして掲げられた論考は他には1974年の小能林宏城氏の「新生の空間」(『白井晟一の建築』中央公論社)くらいであったように思う。

 そういうわけで3人の方は既に原爆堂を論じられているが、加藤氏は語られている内容を見るととても初めてとは思えないが、今回初めて原爆堂や白井晟一をテーマとして考察し迫真の言及を展開された。個人的には加藤氏の原爆堂論でなによりも魅力的だったのは原爆堂とエセーの解析から白井の人間像、人間性にまで至っていることだった。加藤氏はこれまで日本の戦後社会、戦後文化における様々な人間像を浮かび上がらせて来られたが、そのような同時代を生きた一人の人間として白井の実像に迫っている。

 原爆堂を白井の現実との対し方、考え方が象徴的に現れているものとして捉える加藤氏の原爆堂論はまず、現実との間に橋のかけられている理念(統整的理念)と、その橋をいったん落として「自分の生きている間には実現できないかもしれない」が「自分たちにとって、人類にとって必要」な目標としての理念(構成的理念)の二つの種類の理念があることを解説し、原爆堂計画がその二つの理念の二重構造を持っていることを指摘されている。そしてもう一つの大きな指摘は吉本隆明の外在史と内在史の理論を引きながら、原爆堂計画の未来へ向かう思考と「縄文的なるもの」の始源に向かう思考が同じ思考空間の中で同時に行われていることを重視し次のように述べられている所である。「原爆を落とされたという経験がある中で、世界の未来の祈念に向けて構想しようというのであれば、それを支える自己省察、おのれの文化の源泉への態度は、どのように深く厚いものでなければならないか。」

 

 

 

 

 

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時を刻むもの(1982.11.)

 

 1982年11月の『白井晟一研究 検戮寮酖催仍瓩縫ぅ鵐織凜紂爾靴拭崚々居と虚白庵の間」をチェックする必要があり久々に手に取った。その中に塩屋宋六のペンネームで本のの後記として書いた拙文を見つけたのが以下である。推敲してすこし改めた。36年前のものだが考え方はそれほど変わっていない。成長していないということか。

 

 時計の刻む「時」が、一日のうちの時分秒という時の符号だけでなく、人間の営為を刻印する逃れようのないものの実存の符号でもあるとしたら、それは過ぎ去っていく「今」が、絶え間なく生成する過去とのとぎれのない連続によってはじめて今の「時」を得ているという理解を前提とするものであろう。そのような時計はだから一瞬たりとも休止することのなかったという連続性を保証するものでなければならず、どのような異変や変動に見舞われても途切れのない運動の連続性を失うものであってはならない。それにたいして、時を分け、緩急変化をつけ、取捨選択、強調、推理、あるいは忘却、そして抽象や概念的な普遍化などの作為によって成立する歴史という解釈を、凌駕ときには解体するだけのリアリティーを持つものであり、歴史は空白や間断を許さないそのリアリティーに耐えうるものでなければならない筈である。

 しかしわれわれの歴史は恣意にとめられた時の空白が、歴史のリアリティーを著しく損傷しているにもかかわらず放置されたままであることが少なくない。日本の現代建築の歴史では「戦後」はいきなり瓦礫に埋もれた焦土の復興からはじまって、戦後をもたらした戦争という「時」はきれぎれに鈍い音をあげているか、あるいはまったく時を刻むのを止めてしまっているようでさえある。戦後40年にも至ろうとする時の流れの中で、戦争と建築家のかかわりを示すさまざまの事実は瓦礫の下に埋め込まれ、戦前と戦後を間断なくつなぐことによってはじめて成立しうる歴史のリアリティーが回復されることもなく、血と硝煙の経験を個人の閉鎖的な記憶のなかに封じ込めてきた。

 「建築の世界で建築家の戦争責任はどうなっているのか」というある文芸評論家の、言葉だけとってみればいささかドグマティックな問いかけが伝えられてきた。それは侵略や戦争に向かった帝国主義の国家体制と直接かかわった特定の建築家だけをとりあげて問うものではなく、戦争に向かった体制社会の中でとられた建築家としてのさまざまな行為や姿勢に対して、自らを含めてどのように自覚的に捉えられてきたかという問いとして捉えるのでなければ意味はない。

 教科書問題をきっかけに政界や官界ばかりでなく知識人、文化人と呼ばれている人々の示したものを見れば、戦争とその時を歴史に刻印するという基本的な作業と、そのうえではじめて可能なはずの、戦争とそれを準備した戦前から戦後を画しうる思想というものの希薄さや未成熟はひとり建築の世界にとどまらないと言えるが、国民の固有で共通のテーマを戦後求めながら十分に展開させることも説得力をもった提起を発信することもなく、むしろそれらを拡散さらには解体するさまざまの仕組みや論理に迎合して、現代建築を文化の領域として定位することも、自立した論理を発展させることもなかったのではないかという桎梏から解放されるものではない。

 経済高度成長の爛熟期の中で、建築の種々の問題が思想なき論理や概念に落とし込まれたのも当然の成り行きであったのかもしれない。その無思想性は経済成長の浮かれた世界ではけだし不快なものとはい言えず、むしろ建築と思想の片寄った野合から生まれる奇形をはらませることがなかったのは幸いであった。しかし歴史の大きな節目に切断や空白を残したまま語られる論理が、押しつけられた仕組みや思考を改革する資質にも、現象から表現を自立させるしたたかさにも欠けたものであったことは拭いようのない事実として認めざるを得ない。

 時計の告げた「今」が、過ぎ去った時との連続を保証するものでもなく、目につく他の時計と同じであることによってしか告げられた時の正しさを立証できないということは、その時計の告げる「時」の実在感を極めて希薄なものにしてしまう。何かあればまた止まって途中を飛ばしてしまうかもしれない不安を抱えた時計は、たまたま今の時刻を確認できても、それがもしかしたら数十年前、数百年前のその時刻であるかもしれないという疑いから自由になることはないのである。

                                                     白井磨

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原爆堂展から書籍『白井晟一の原爆堂 四つの対話』へ

       原爆堂展から書籍『白井晟一の原爆堂 四つの対話』へ

 

 白井晟一の原爆堂展の主催者による正式名称は「INVITATION  to  TEMPLE ATOMIC  CATASTROPHES」です。押しつけがましい概念や理屈で飾り立てすることなく、「原爆堂計画」というものの存在を少しでも多くの人に紹介するのが展覧会の基本コンセプトでした。そしてこの展覧会で紹介された「原爆堂計画」の核心に向かう資料と議論を提出するものとして書籍『白井晟一の原爆堂 四つの対話』が企画され間もなく出版(晶文社)されます。むしろ展覧会よりも先に企画されたこの書籍の基本的なコンセプトは、3・11の試練によって背負うことになった自覚的な問題意識を踏まえた上での、建築の領域的な利害や観念に拘束されない言葉を、原爆堂をてがかりとして提出することでした。

 展覧会の開催と同時に予定した書籍の発行が遅れることになってしまいましたが、そのコンセプトは変わりません。書籍ではまず原爆堂計画を白井のエセーを通して解説する拙文からはじめて、岡崎乾二郎、五十嵐太郎、鈴木了二、加藤典洋各氏の順で原爆堂と白井という問題に深く斬りこむ言葉が展開されています。フェーズを異にした四人の話者の言葉は自身の抱えてきた問題とのかかわりに及ぶものもあれば、3・11以後の世界の中で原爆堂の意味が追及されているものもあります。

 展覧会というものは、普段は誰かに所有されていたり、金庫の奥に保管されたりしているものでも、観るものが共有できる公開性に意味と本質があります。しかし一方では一過性のお祭り的な性格を持ちます。そのような展覧会というものを補いかつそこで提出された問題を継続して引き受けることがこの書籍には期待されています。

 また、余談ですが、原爆堂のCG動画は展覧会での上映を目的に制作したものですが、これは原爆堂計画の最終的な姿を示しているというわけではありません。遺された設計図は基本的なものにとどまっており、CG動画は設計者白井晟一の意想とわれわれがかかえている現実の課題を、これからも追求し実施設計を進めていくうえでの力強いツールなのです。

                                                    白井磨

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「白井晟一の原爆堂展」で思うこと

          原爆堂計画と「縄文的なるもの」

 

原爆堂計画(1955)の翌年書かれた「縄文的なるもの」(1956)は建築界の伝統論争のさなかに発表された。そのためもあり他のエセーに比べて取り上げられることも多かった。しかし建築界での理解はたいてい縄文と弥生という単純な二元論のベースにとらわれ続け今日に至ってもそれはさして変わらないように見える。白井が文中明確に記しているように、かれは弥生的なるものを「形象性の強い」定型化された伝統の系譜として捉え、そこから脱却するために「縄文」とのディアレクティークを方法として提示したものだった。そしてそれは「創造の問題として」と限定しているように、歴史の解釈の問題として論じているのではなく、まさに展開していた建築界での伝統論争に向けられたものだった。丹下健三の伝統論を含め建築の形や様式に偏りすぎた伝統論争そのものを批判するものだった。しかし言葉と当時の建築作品で明確に示されているにもかかわらず、「縄文的なるもの」の不正確で二元論的な理解はやがて「縄文好きな建築家」あるいは「晟一好み」といった言葉を生み個人的な趣味的世界へ白井観を導くことになる。

今回開かれている「原爆堂展」は建築を紹介する図面やビデオが中心になっているが、主催者のコメントや解説にも表れているように「原爆堂計画」のメッセージが表にたてられている。311以後の社会の現実と関わる問題として原爆堂計画から読み取られた「共存」や「対話」というコンセプトが掲げられている。それは造形やデザインにのみこだわるのではなく、かれの残したコメントを含め原爆堂計画のもつメッセージ性に目を向け耳を傾けようとしたものであり、「縄文的なるもの」で論じられたように戦後の日本の近代建築の形象性の偏重にたいして白井が提出していた答えを示しているものとして原爆堂を捉えたからである。

                                             2018.6.10.  白井磨

 

 

16:45 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
白井晟一と白磁の世界

 

 白井晟一のエセー集『無窓』のなかに「白磁の壺」という一篇があり提灯壺と呼ばれる李朝の白磁について次のように述べています。

 

 「茶の湯もまた、中世インテリゲンチャの遊びにほかならぬが、茶事における鑑賞の内的規定を「無」としながら、ようやく獲得したかに見えたのは、その極限に至る過程への憧憬にとどまった。いわゆる「わび」、「さび」である。李朝白磁にそういう中途半端な味わいはない。その無碍さには手が出なかったのである。八方破れ、つまり無防備の構えほど強いものはないと言葉ではいえるが、芸術にしても、民族にしても、果たしてこのことを現実に実証しえたものがあっただろうか。」

 

 戦後日本の伝統や和風の美学が金科玉条としていた「わび」「さび」を「中途半端な味わい」と批判し、それにたいして提灯壺の無碍さが鑑賞されています。「無碍」とはなにものにもとらわれない自由であり、自由な創造や造形を規制するもの、「伝統的な様式や美意識」「科学技術への信仰」「観念的な美学」「流行」「アカデミズム」あるいは「体制や権力からの圧力」などからの自由は、建築作家として何にもまして基本的な条件と白井が考えていたものであり、かれのさまざまな表現はその葛藤や戦いの軌跡を示すものでもありました。李朝白磁への関心もそうした内面と共鳴するところがあったことを示しているのかも知れません。

 さて白は純粋や清潔のイメージにもつながりますが、冷たさや空虚、あるいは悲哀の色ともされ、日本人は死の儀式に白と黒のコントラストを選びました。そこでは白は生命にとって退潮的な色と感じられているようにも見えます。ヨーロッパの地中海沿岸には、海と空の紺碧を背景に輝くように白い建築が建ち並び、大理石の白であることもあれば白い漆喰のこともあります。そこでは白は太陽の降り注ぐ光に呼応して明るく晴朗な気配と景観を創り出しています。かれは白を悲哀の色とは捉えませんでした。

 白井晟一の建築やエセーにも白がしばしば登場します。自邸「虚白庵」は建築の名前だけでなく、中庭は点景に枝垂桜が一本あるだけで、あとは全面真っ白な白河砂が敷かれていました。「浅草善照寺」「松井田町役場」「親和銀行大波止支店」も白い建築です。よく知られたエセー「豆腐」「めし」は純白の食品です。その「豆腐」には次のように記されています。

 

 「われわれの客観が、経験として、この形と、色と、物理的性質にのみ向かうときは、豆腐の全体を認識することにはならない。しかも、豆腐は食物というにつきるが、舌感や消化の連想だけでは、いまだ美を導くものとはなり得ない。

 これ以外のものを許さない形と、色と、物理的性質に到達し、いや、人間のために満足な「用」となって奉仕するものを完全というならば、われわれは豆腐において、具体的な生活の目的のために具現された、一つの「完全なるもの」を見ることができるのである。」

 

 豆腐は日本人の誰もが口にいれるきわめて一般的な食物であり、美の対象や芸術としてとらえられることは通常ありません。しかし白井は観念的な理屈や感覚だけの皮相を退けたうえで、豆腐から人と物の根源的な関係に向かい日本人の美意識の根にあるものを探り出そうとしました。ここで述べられた「用」とは機能主義の機能と異なり、「一つの生命が他の生命に奉仕すること」ととらえられ、「美も、機能も、あるいは論理も、『用』に完全に埋没せられてはじめて価値を生ずる。」とされています。

 かれは哲人建築家と呼ばれるようなこともありましたが、抽象的な概念からではなく、生活の中の実体から事物の本質を洞察しようとしていたことはこのエセー「豆腐」からもうかがうことが出来ると思いますが、ともすれば構成や形、デザインのアナロジカルな(類比的な)分析で終わってしまうような建築論や造形論を退け、人間と物との関係を突き詰めていくなかで、建築や造形、あるいは文化というものと向かい合っていたことが分かります。 (2011.02『陶説』695) 一部改稿

 

 

                                 

 

 

 

 

 

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「原爆堂と白井晟一」展からの招待状

 今年6月に開かれる「原爆堂と白井晟一」展の趣意書です。

 

 

   INVITATION  to  TEMPLE  ATOMIC  CATASTROPHES

 

 

 野外に出て無限な蒼穹を仰ぐとほっとする。

 これが理想の色かと思う。生きている本当

 の理由が、身内に湧いてくるのである。自

 然の叡智が人間の自由な生命をあらゆる強

 制から解きほぐしてくれるからだ。

 

 白井晟一のエセーの「めし」の冒頭です。この2年前かれは「原爆堂 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES」のプロジェクトに取り組み、広島、長崎の市民を襲った原爆の残虐、荒涼とした廃墟の世界と向き合っていました。「無限な蒼穹」が粉々に砕け落ちた世界。「自然の叡智」に反して人間が創り出したもの、その爆発とともにアレントの言う「現代」の世界がはじまったのでした

 原爆の威力をさらに高める研究と開発が冷戦下の米英ソでしのぎを削っていたさなか、1954年の3月ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験で、日本の漁船「第五福竜丸」が被曝し乗組員23人全員が急性放射能症を発症、無線長は半年後に亡くなりました。核実験によるマグロや海産物の放射能汚染、放射能雨の検証が行われ、3000万を越える署名運動は大気圏内と海洋での核実験禁止にようやく向かわせます。

 この状況の中で映画や文学、写真や漫画、美術や音楽などのさまざまの分野で原爆や核を問う作品が改めて生まれ始めました。映画では「ゴジラ(本田猪四郎)」、「生きものの記録(黒澤明)」、「第五福竜丸(新藤兼人)」、「二十四時間の情事(アラン・レネ)」などがよく知られています。建築界からは.核の問題と対峙する表現は唯一「原爆堂」計画にとどまり、丸木夫妻の「原爆の図」美術館への提案という形で1955年4月に新聞等に発表され広く知られましたが建設には至らず、白井は8月には機能を美術館に限定しない形で国際社会に向け英文のパンフレットを作成します。

 

 2011年3月、没後30年をまじかに控え「白井晟一 精神と空間」展が「原爆堂」計画を中心に東京で開催されていました。11日、東北地方太平洋岸を大地震と津波が襲い、その中で福島の原子力発電所がレベル7の大事故を発生。核に潜在する脅威が現実のものとなって目の前に突きつけられ、「原爆堂」に託されていたメッセージが60年を経ていっそう切実な意味合いをもって届けられることになってしまいました。展覧会で原爆堂計画を見た作家福永信氏のコメントが印象に残ります。これは「過去のかなわなかった建築ではなく、未来の建築として映る」

 「原爆堂」計画は一枚の精細に描かれたパースと数点の基本図面及び設計者の短いコメントで構成されています。白井の建築家としての活動、エセーを含むさまざまな表現とそれらの背景となった時代に目を向けながら計画の内容と意図を、少しでも全体的かつ正確に把握するための作業を続けています。

 唯一の被爆国、核の被害者であったこの国とわれわれは、フクシマの原発事故を起こしたことによって自国の市民の犠牲ばかりでなく、海洋と大気に放射能を拡散し核の加害者の立場を余儀なくされました。「原爆堂」の建設に向かう活動を促したのはそのことでした。再びヒバクシャを生んではならない、自分たちと同じような凄惨な経験をいかなる人々にもさせてはならない、そうしたヒバクシャを中心とする悲願と活動をとおして育てられた暗黙の了解は、戦後形成された国民的合意の一つであり、日本という国と人のアイデンティティーを形成してきたものではなかったのだろうか。フクシマはその合意とアイデンティティーを破壊するものでした。

 核による脅威を一気に取り払う方法があるのであれば言うことはありませんが、世界を破壊することのできる脅威から解放される道は遥かに遠いというのが多くの人の共有する実感でしょう。そのような困難から目をそらすことなく、人間と核の問題を正視し背負い続けることの重要性から、さまざまな形で生まれまた隠蔽され続けているヒバクシャに対する医療とケアは国境を越えた国際社会の責務であると考え、「原爆堂」を中心にそのための施設と機構の実現を模索しています。

 

 本展は新たに製作したCGムービーを中心に「原爆堂」計画を改めて紹介し広く知っていただくことを願って企画されたものです。

 

                                           主催 原爆堂建設委員会

                                           協力  白井晟一研究所

16:24 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
保坂陽一郎先生を偲んで

                             保坂陽一郎先生を偲んで

 

 保坂氏はまだ東大の学生だった時に、委員長を務めていた学生会議での講演を依頼に来られたのがきっかけで父との交流が始まったと聞いている。そのころ前後して同じような用件で原広司氏や黒川紀章氏が父を訪ねられている。僕がきちんと保坂氏にお会いしたのはすでに1980年代になってからで、静岡の石水館−静岡市立芹沢げ霹術館が竣工したときに父に言われてご案内した時だったと思う。確かそのあと市内で鰻の蒲焼きをご一緒した。余談だけれども父は完成した石水館に特別の思い入れがあったようで、日本女子大の小川信子氏や早稲田大学の池原義朗氏に若い人たちに見せてあげてほしいと電話をしている。その中に藤井正一郎氏や保坂氏もおられた。現場に残って後の処理をしていた私がそのたびにご案内することになった。池原氏はその時のことを虚白庵とあわせてエセー集「光跡」に書かれている。保坂氏は私がお願いして『白井晟一研究』の犬如嵎匹魍く 二つの美術館をめぐって」を寄稿していただいた。

 父が亡くなって虚白庵にとどまったのは私一人だったが、もともと付き合いも悪く愛想もないということもあり、生前父と交流のあった方々とお付き合いすることもほとんどなかった。例外が「白井晟一全集」をご一緒に作ったが完成を待たずに亡くなられてしまった宮嶋圀夫氏と、保坂氏だけだった。一人で仕事を始めて間もなく行き当たったトラブルで裁判の原告に立たざるをえなくなった時にご相談し、建築専門の法律家をを紹介してくださったのが保坂氏だった。その後はお会いする機会はなかったが、退官され設計事務所を閉められてからも、著作や作品集をお送りくださったり、一言添えた年賀状を欠かさずいただいていた。先般製作して出版したシリーズ「白井晟一の建築」にもいつもコメントをいただいた。

 建築界との付き合いもないせいか、一昨年2016年の暮れに亡くなられていたことを知らずに今年も年賀状を差し上げていた。遅ればせながら、生前変わらずいただいたご厚志に心からお礼申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

                                                    白井磨

18:54 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
親和銀行大波止支店の建築について

 白井晟一が1963年に竣工させた長崎の親和銀行大波止支店の建築が、経営の合併統合の流れの中で存続が危ぶまれているのだという。2010−11年にもそれに類する事情で閉鎖解体の話が伝わり、それに関連してか当時の頭取が丁度開催されていた高崎と東京の「白井晟一展」を訪ねて来られるという一幕もあった。そんなことがあり開催中の「白井晟一展」を長崎に巡回して存続への足掛かりに繋げたいと長崎の美術館とも交渉したが、急のことであり不調に終わった。

 大波止支店の建築は親和銀行の初代頭取北村徳太郎氏がすでに計画されていた佐世保本店の設計を白井に委託する前に、白井の力をいわば見定めようと設計を発注したものであったらしい。この建設の際にはバンキングホールの床のカーペットをめぐり銀行と白井の間でやりとりがあり、地域的に長靴履きの漁業関係者が多くカーペットはなじまないし贅沢だいう銀行に対して白井は、維持管理に手間がかかるのは分かるがそれだけ汚れたり、そのため摩耗しても、それだけ顧客に銀行が利用されたということであり、労働が終わって1日の収益を預けにくる銀行がホットできる空間を提供しそのため多少管理の費用が増えてもそれが顧客に対するサービスになるのではないか、カーペットはホール内で歩き回る雑音も減らし静かな空間を提供できると話して、銀行もなっとくしたという逸話が残っている。その後大波止支店の顧客数は大きく伸びたと聞いた。

 以下は1984年、白井の没後1年たって刊行された『白井晟一研究 后戮坊悩椶靴神枴検屮ぅ蹈法爾陵夕亜´掘廚蚤臟隼濟拇垢某┐譴唇貔瓩任△襦

 

 「長崎の親和銀行大波止支店は白井がかれの設計したものの中で最も好んだ建築であった。北木産の鑿取仕上げの施された御影石張りの、2階分高さのファサードの壁は湾曲しており、それを左右に伸びるギャラリーのストレートなラインが囲む静かで優しいたたずまいの建築である。硬質で強いテンションを示す「原爆堂計画」とは対照的である。それにもかかわらず、私は原爆堂と繋がる建築的意想を感ぜざるを得ない。それは一つのモティーフの雌雄を見ているようなのだ。内部のバンキングホールはファサードをそのまま反映して壁は弧を描き、穏やかな採光を受けて吹き抜けの静かな空間が広がる。この建築には内部も外観にも地方金融機関の支店という機能的性格を持ちながら、かつて白井が雪国の人々の雪と戦う生活に直面して示したような、土地の人々に対する深い同情と敬愛の祈りにも似た姿を見て取ることが出来る。

 原爆堂計画の作者としてのかれが、町の被爆の歴史に対するひそかな思い入れをその建築的モチーフにだぶらせていたであろうことは、むしろそのことを抜きにこの建築を読み取るほうが難しいだろう。建物を囲むギャラリーは祈りの列を優しく守り覆うにふさわしく、浅い池に浮かぶようなファサードも内部のホールも、深く静謐な慰霊の魂を包む空間に似つかわしい。」

 

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敗戦後日本と白井晟一の伝統論

 建築界の伝統論争の中で白井晟一の「縄文的なるもの」が掲載されたのは1956年の『新建築』7月号だったが、かれはその5年前に国学院の講演で「縄文的なるもの」の前段ともいえる伝統論を展開している。(「華道と建築 日本建築の伝統」)これは1945年の日本の敗戦、全面降伏による連合国、実質的には米軍の占領が終わる前の年だった。その講演の中で白井は伊勢神宮をとりあげて「西洋の古典建築のように合理の要求を満足させるために素樸な意志が変質されたものではない」ことを指摘し、それが「日本的創造精神の原理」を示しており、そのような原理にたいする「自覚と矜持を血肉の中にもっているならば、あたかも原理も伝統ももたぬ亡国の民のように、不安定な観念の動きをたちどころに模倣して不健全なエンスージアズムに沈潜するといったような不手際はおかさないはずであると考えるのであります。」と述べている。

 加藤典洋氏の『敗者の想像力』(集英社新書 2017)を読んでいて、この時期が漠然と戦後というだけでなく米軍の占領下にあって、加藤氏が日本ではなぜ描かれるべき「被占領の文学」が少ないのかと問うている、そのような時期であり、そのことを注視してこなかったことに気が付いた。白井の「不健全なエンスージアズム」とはまさにその時期の社会の心的な状況、欧米の支配と論理に屈服し、モダニズムのような文明の先進国の近代を「たちどころ」の模倣という形で取り入れてしまう傾向への批判であったことが理解できる。それから5年後の「縄文的なるもの」で伊豆韮山の江川邸の遺構に「友よ、そんな調子でなく、もっと強い調子で」と語らせるのも、敗戦と占領により「原理も伝統ももたぬ亡国の民」のように見えた戦後文化を鼓舞しエールをおくるものだったことが見えてくる。

 「縄文的なるもの」の前の号(『新建築』)では丹下健三が「現代建築の創造と日本建築の伝統」というタイトルで伝統を論じているが、かれはここでは伊勢神宮を「専制的な国家が生まれ出ようとする社会変革のモニュメント」であったとし「伊勢の鬱蒼とした森」はアニミズムの形象化だったと述べ、あるいは日本の伝統的な美意識は「現実認識における情意性や、自然認識における消極性といった弱い姿勢からきている」ことを強調し、おおむね日本的伝統に批判的な姿勢をとっている。また、戦時中の「大東亜建設記念営造計画」コンペの際の「近代の超克」的なコメントとは逆に、ヨーロッパ文明の「自然と対決し」「自然を克服しようとする」強い意志を評価した。この論考に表れている限りの丹下の伝統論と白井の伝統論は、同じ日本の戦争と敗戦、そして占領という同時代を生きながら対照的である。問題なのはそれが、日本が「対米従属のもとで主権もなく、いわばがんじがらめに縛られたままだという〈事実〉」(前掲『敗者の想像力』)を引きずる状況がつづく中で行われたものであったことである。

 

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メモ 「近代の超克」批判の歴史

 米谷匡史氏の竹内好の「近代に超克」をめぐる論考(カッコ内)から 

 そこで唱えられた「近代の超克」と「世界史の哲学」は「〈一五年戦争〉期、とくに〈大東亜戦争〉期の日本の動向を、近代をのりこえ、アジアを西洋の植民地支配から解放する先駆けたるべきものとして整除する言説」だった。しかし問題はそのような言説、理念が帝国主義日本の侵略や植民地政策の現実と表裏をなしていることだった。戦後になって当然この矛盾する表裏が対外戦略、植民地支配に対する批判と「アジアを植民地支配から解放するという戦争目的の擁護論」となって対立反発が繰り返された。(「世界史の哲学の帰結 戦中から戦後へ 『現代思想』1995.01.)  

 

  磯前順一氏の「近代の超克」論から

 竹内好の「近代の超克」における日本の知識人に対する最大の批判点は「アジア太平洋戦争の敗北によって、日本はアジアの植民地を失ったわけだが、同時にみずからを西洋の一部として見なすことで、自分がアジアの一員であること、そして西洋との葛藤を抱えて存在してきたことをも忘れて」「アジアと西洋の間に存在したアポリアを忘却してしまったこと」だったと指摘する。言い換えれば「自分たちと西洋の近代主義者を同一視することで、自らの身体や感情をどのように扱ったらよいかという問題を等閑視」してしまったというものだった。(『閾の思考』法政大学出版局 2013.08.)

 

 

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