反覆 イロニーの様式 断片3推敲

   ソクラテスの死のイロニー 1

 

 ジャンケレヴィッチはソクラテスの死を次のように描いている。「ソクラテスは、その日の夕方に不可避な死をひかえても、その心の清澄さと静かなことばとが時が刻々逃避していくとゆう苦悩をおおいかくして、ついに訪れるべき極刑を特筆する必要もない一雑事と化している。この場合<死刑囚最後の日>はほかの日と変わらない一日なのだ。ソクラテスはその最後の一時間、その最後の一分間までもとるに足らぬ一挿話を扱っているように装い、残念ながらこの上なく確実な時となっている最後の試練の訪れるまで、なにごともないかのごとく、よもやまの話にふける。運命に対する諦観が理性の完全な掌握と対をなして進むのだ。」そして「死がソクラテスの牢獄に忍びこむやいなや、すでにソクラテスのまなざしは動かない。すべては始まる前に終わっている。『ペレアスとメリザンド』の最後のように、すべては秘やかに、いわばつまさきだって過ぎ去った。だれもなにものも見ず、なにも聞かなかった。だれも何も気づかなかった。」このようなソクラテスの死の光景はイロニーの原風景―生と死のイロニーを示すものであり、イロニーを単なるレトリックの問題に陥ることから救う力を示している。

 

 ソクラテスをアテネの法廷に立たせることになった直接のきっかけは、「ソクラテスは国家の認める神々を信ぜず、新しい神々をもちこんだかどで有罪である。また青年を堕落させたたかどで有罪である。刑量として死刑を提案する。」というメレトスとアニュトス一派による告発だった。これはアリストパネスの喜劇「雲」で描かれた詭弁家で神を恐れぬ無神論者ソクラテスの像と一致している。「弁明」ではこれに対してメレトス等の告発より手ごわく恐ろしいのは人々の中傷と嫉妬だとソクラテスに語らせている。それはかれが広場や街の通りで、人々を無知の自覚へ導こうとするディアレクティークー対話を始めたときにすでに芽ばえていたものだった。

 このころアテネは「この30年間のほとんど絶え間ない戦争と革命、国土の侵害、悪疫、艦隊の壊滅、帝国の崩壊、封鎖、降伏、外国軍の占領、専制、追放、内乱、これにつづく曖昧な恩赦」の歴史と経験から大国の威信を打ち挫かれ、精力を使い果たし、神経を苛立たせながら、長い試練からようやく抜け出そうという時期だった。ソクラテスを告発したメレトス・アニュトス一派は、そのようなアテネを立て直すには財政の危機的な状態をただひたすら労働によって克服することが最も肝要と考える国の有力者たちの中にいた。「金銭は徳を生み出さないが、徳は人間にとってあらゆる繁栄の源、公私ともすべての富の源」と説くソクラテスの言葉が、彼らにとって抽象的で、大切な労働や時間を妨げる害悪と考えられるものであり、そのような思想や言葉を断ち切るためにソクラテスは抹殺されなければならなかった。

 

 さらに悪いことにはソクラテスの門下生と見なされていたアルキビアデスとクリュティアスが国家の敵、祖国の疫病神となっていたことである。アルキビアデスは「ヘルメス神像を汚し、仲間と共に自分の家で秘儀をもじった瀆神者、麗々しい公約をしてアテナイを不運なシケリア遠征にまき込み、ついで敵側に身を売り、スパルタやペルシャとはかって祖国の崩壊のためにあらゆる知恵を絞った。」そしてクリュティアスの方はといえば「神々は方便であると公言する悲劇」を書き、「外国の勢力によって権力の座についた残忍な専制主義者一派の頭目で、その警察は善良な市民を何千となく追放し処刑した。」ソクラテスがそのようなアルキビアデスとクリュティアスの師、先生であると見なされていたことも彼の立場を極めて不利なものにしていた。

 

 このような状況や風説にもとずく理解とその歴史は、しかしアテネの国と法廷がいかに彼に対する死刑の判決に至ったのかを示しす資料にはなっても、それは何がソクラテスを死に至らせたのかの問いに答えを与えるものではなかった。神々に対する不敬な研究が国家の危機や衰退を導いたとしてすでに、アナクサゴラスやプロタゴラス、メロスのディアゴラスらの哲人は告発され裁判にかけられても死罪に至ることはなかった。しかしかれはそれらの先例にならって死刑を免れるための弁明や弁証を展開することはなく、むしろいたずらに告発者たちを苛立たせるような言葉によって死罪を忌避する意志を示すことはなかった。さらに死刑が言いわたされても国外へ逃亡して亡命者となる前例は当時のアテネにはいくらでもあり、弟子のクリトンもそれを懇願したがソクラテスが応じることはなかった。

 

 ソクラテスを死に至らしめたものが、告発者でもなく死刑の宣告でも誤解や中傷でもなかったのなら、では何だったのか。かれが死を忌避しようとすることがなかったのは何によるものだったのか。

 

  1.デルフォイの神託  

 ソクラテスはかれが広場や街の中で多くの政治家や知者、芸術家や商人たちとの対話をかれの生活とするようになったのは、友人のカイレポンがデルフォイで受けた神託にあると述べている。それはカイレポンが、ソクラテスより誰か知恵のある者がいるかどうか訊ねると、巫女をとおして「ソクラテスより知恵のあるものは誰もいない」という神託を受けたというものだった。ソクラテスはこの神託について真剣に考える。「いったい何を神は言おうとしているのだろうか。いったい何の謎をかけているのだろうか。なぜなら、わたしは自分が、大にも小にも、知恵のある者なんかではないのだということを自覚しているからです。」この自覚が神託を短絡して受けとることなく、それを謎として、神託の意味を理解しようと決意させる。それからかれは知者と思われている人々を次々に尋ね、「仔細に」「問答をしながら観察をしているうちに」その知者と言われている人物たちが決して自分自身で思い込んでいるほど知恵のある人物ではないことがわかり、今度はそれを相手にもわからせて自覚に至らせようと努めることになる。やがてソクラテスは「やっとのことで」自分が知らないのに何か知っていると思い込んでいる人よりも、知らないことを知っている自分の方がそのちょっとのことだけ知っているということになるらしい、との認識に至る。いわゆる「無知の知」である。こうしてかれの産婆術―ディアレクティークは別のもっと知恵のあると思い込んでいる人々を次々にたずねて展開した。その都度かれの「無知の知」は深まるが、知恵によって権威を保っていた者たちは、その権威を傷つけられたり失ったりすることによってソクラテスを憎むことになった。

 ソクラテスにデルフォイの神託に対する敬虔とその真意を理解しようとする真摯な決意もなく、自分の知の貧しさを自覚する謙虚さと理性がなかったら、かれのディアレクティークは生まれず、そのことによって人々からの憎しみや中傷、嫉妬を受けることもなかっただろう。その意味ではデルフォイの神託はやがてソクラテスを死に至らしめるのである。

 

  2.ダイモニオン

 ソクラテスには本人にしか知覚されないダイモンのしるし、ダイモニオンがあって、かれが何か間違ったことをしたり言ったりしそうになると合図をおくるのだと述べている。それが特徴的なのは、正しいことやなすべきことを指示するものではなく、してはならないことの前ぶれとして常に否定的なしるしだったことである。「わたしが何かをしようとするときに、それは私をさし止めるのでして、何かをなせとすすめることは、どんな場合にもないのです。」

 E.R.ドッズは今日でも未開人の間で比較的多く認められる白昼夢、もしくは幻覚とこのダイモニオンの近似性を指摘し、ギリシャ人の間では「この種の経験はかつて、かなり頻繁であったし、また歴史時代においてもなお時には生起したと、多分、結論すべきであろう」とし、「これらの現象は、一般的にいって夢と同じ起源と心理構造を持っている。そして夢と同様に伝統的な文化の型を反映する傾向をもっている。ギリシャ人の間で断然多いタイプは、神の顕現もしくは神の声の聴聞であって、これはある種の行為の遂行を命じたり禁じたりするのである。」

 ソクラテスのダイモニオンをどのような現象としてとらえるにしても、ソクラテスがそれを「神の声」と呼んだとクセノフォンが伝えているように、何らかの神的なものへの畏敬と信頼において力を及ぼすものであっただろう。ソクラテスが国家や政治上のごたごたに手を染めようとすることを反対したのもこのダイモニオンであり、それをかれは「諸君なり、あるいは他の大多数の人たちに、正直一途の反対をして、多くの不正や違法が国家社会のうちに行われるのを、どこまでも妨げようとするならば、人間だれしも身を全うする者はないでしょう。むしろほんとうの正義のために戦おうとする者は、そして少しの間でも身を全うしていようとするならば、私人であることが必要なのでして、公人として行動すべきではないのです。」と理解し結論した。
 あるいはまたこのダイモニオンは人々の個人的な利益に寄与することはなく、全体の中の個人、神のまえで共存する諸個人、ポリスの秩序における個人の間違ったあり方を否定するしるしとしてあらわれた。そしてソクラテスが告発されて裁判に向かうその「朝、家を出てくるときにも」「法廷に入ろうとしたときにも」、さらにかれが自分の立場と生命を守るためには決してで適当ではない「弁論の途中」にも、死を眼前に控えても死を忌避しようとはしないソクラテスに対してもこのダイモニオンは現れず、ソクラテスを死に至らせることになった。

 

  3.法

 死刑を間近にひかえたソクラテスを獄舎に訪れた弟子のクリトンは国外への亡命を懇願するが、それに対してソクラテスは国の法が自分に語りかけるという設定で次のように答えている。「いずれにしても、いまこの世からお前(ソクラテス)が去っていくとすれば、お前はすっかり不正な目にあわされた人間として、去っていくことになるけれども、しかしそれはわたしたち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしお前が、自分でわたしたちに対して行った同意や約束をふみにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国とわたしたち国法に対して害を加えるという、そういうみにくい仕方で不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、生きているかぎりのお前に対しては、私たちの怒りがつづくだろうし、かの世へ行っても、わたしたちの兄弟たる、あの世の法が、お前は自分の勝手で、わたしたちを無にしようと企てたと知っているから、好意的にお前を受けいれてはくれないだろう。」

 こうしてソクラテスは国法と世間の人間の加える力とをはっきり分け、法の全体性と市民個人の関係を示し、法を破って逃亡することが守ろうとするはずの自分を守ることにはならないという論理を展開した。デルフォイの神託、ダイモニオンと並んで法もまた、ソクラテスを死に至らせたのである。

    『白井晟一研究供截陦牽機檻坑亜。隠坑沓后

 

23:30 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
反復・イロニーの様式 断片・その2

 ドラマティック・イロニー

 

 「その〈イロニー的な語り口の〉言辞はおそろしいほど真剣であるが、しかし事情を知っている聞き手は、その背後に潜んでいる秘密に通じている。だがまさにそれによって、イロニーはまたしても止揚されるのである。真剣に考えていもしないことを真剣に言うことが、イロニーの最も一般的な形式である。」このようなイロニーの恰好な例を、大山俊一が「ハムレット」の「魚屋のシーン」におけるハムレットとボローニアスのやりとりを例にあげて解析している。(大山俊一『ハムレットの悲劇』篠崎書林)そこでハムレットはボローニアスに対してかれの狂気を真剣に演じてみせる。それは「偽装」であるという点で「真剣」ではないのだが、事情を知っている観客とはちがって、それを知らないボローニアスにとまどいながらもハムレットの狂気を信じさせるほどに「真剣」であり、ボローニアスがそう受け取るのは無理もないと観客に納得させるほどに「真剣」である。同時にその「真剣」が「偽装」と承知している観客は、ハムレットの表現の重層的な含みや毒気、そして精神の緊張を理解することになる。

 このイロニーはドラマティック・イロニーと呼ばれるもので、劇中の当事者と観客の間に、知らされている事実にハンディキャップをつけることにより、一つの表現が全く異なったニュアンスを持つように企てられており、観客はボローニアスの身になってみたり、あたかも神のように全体への眺望や事実を知らされている観客本来の立場にもどったりしながら、その二重構造自体を楽しむのである。

 この二重性はより厳密にみれば、一方が神的なものあるいは全体的なものであり、もう一方は固有の特性をもった個体的なものである。つまりそこでイロニーが生ずるのは単に質の異なった対象に同時に表現するからではなく、個体的な劇中人物と全体的な理解をもつ観客に同時に表現を完了しなければならない状況に呼応するためである。

 

(中略)

 

 さて、「真剣に考えていもしないことを、真剣に言う」イロニーにたいして、もう一つのイロニー、いわば「真剣に考えていることを真剣に表現する」イロニーを忘れてはならない。このイロニーも生と表現の分裂と矛盾を前提としており、真剣に考えていることを真剣に表現しようとすればするほど、自らがその表現において、いかに真剣でないかを思い知らされるという表現者の葛藤を反映して、なおかつそこで真剣に表現しようとするものである。この例をやはり「ハムレット」のよく知られた台詞、 to be or not to be に見とめることが出来る。ハムレットはこの言葉を発した瞬間からその言葉の不真実性に苦しむことになる、というよりもその苦しみはすでに台詞に内包されている。それはこの台詞がそれまでのドラマの流れを収斂するものでありながら、同時に文脈からはみ出す特異性を帯び、不協和音を響かせる。それまで単に劇中の主人公だったハムレットが突然その枠から踏み出して、生と死をはかりにかけなければならない人間の悲劇性を観客が自らの中に問いかけることを求めるのである。ドラマの傍観者でしかなかった観客に、この言葉にたいして当事者であることを求め直接語りかけるのである。

 このイロニーは敷衍すれば、全体的なるもの、歴史や文化や民族にたいする通念的な文脈からはずれた特異性として表れるものであり、それ自体の固有な重みによって人々と関わり、定まった因果律や一般的な全体観によって理解されることを拒絶する傾向をもち、生を個別化しようとする表現により新たな文脈を開示しようとする意図をもつ。これは生に対する表現の「偽装」による傷口から生れるものであり、自らの表現と否定的に関わることによって生へ回帰しようとするつよいテンションをもつ。

 表現の真剣さをめぐるイロニーの二つの面をとりあげた。一は表現の個体的性格と全体的性格の同時的共存から生じるイロニーであり、一は表現の生にたいする「偽装」の認識から生れるイロニーである。どちらも表現というものの構造そのものに由来し、そのことによって表現というものの構造を開示するイロニーである。(「イロニーの様式」供p80-82)

 

                      

 

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反復・イロニーの様式  断片・その1

 1978年から1984年にかけて5巻を企画刊行した『白井晟一研究』(南洋堂出版)で連載した「イロニーの様式」は、父親であるにもかかわらず主題化することを私に決定づけた、未熟ではあるが記念すべき文章になった。これがなければ父の没後、『白井晟一全集』(同朋舎1988)も『スケッチ集』(同朋舎1992)『写真 雲伴居』(筑摩書房1993)も「白井晟一展」(2011-12 群馬県立近代美術館、パナソニック電工汐留ミュージアム、京都湖芸繊維大学)も、さらに今回のシリーズ『白井晟一の建築』(めるくまーる2013-2016)の刊行と解説の執筆も手掛けることはなかっただろうと思う。巷には私的な根拠を越えない評説や不確かな情報に依存した決めつけも相変わらず多い。私の場合は白井晟一に関する私的な経験や情報の吟味と対象化が求められるのは当然だが、その上で白井晟一に関する様々な問題における疑問や不確かさの自覚の確認なしには成り立たないと考えてきた。いつも確かな結論などというものはない。シリーズ『白井晟一の建築』の犬鉢垢硫鮴癲崘魄聒隶譴噺暁堂の背景」もそのようなところからの考察だったが、原爆堂計画が「建築家というもののアイデンティティーを問うものであった」という理解を導きだせたことは、今さらながらの発見だった。

 「イロニーの様式」というタイトルは当時たいてい誤解されていたが、白井晟一の建築をイロニーの様式として論じたものではなく、白井晟一の建築を解析したり解釈するこちら側に求められるものとして「イロニー」を論じたものだった。その際最も障害になったのは、イロニーというと日本浪漫派のアイロニーが日本では余りにも浸透してしまっていたために「イロニー」の概念を原義にもどって捉え直さなければならなかったことだった。ジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』に導かれながら「イロニー」を追いかけたが、日本では唯一、林達夫の「反語的精神」くらいにしか納得できるイロニー観を見つけることは出来なかった。

 

 「イロニーは概念として、精神として、あるいは意識として、多くの哲学者や文学者、批評家たちによって語られてきた。ソクラテスからはじまって、プラトン、アリストテレス、シェイクスピア、セルヴァンテス、パスカル、ラシーヌ、ゲーテ、スタンダール、キルケゴール、ドストエフスキー、イプセン、プルースト、トマス・マン、ムシル、ブレヒト、ジャンケレヴィッチといった数えあげればきりのない一流のイロニカーたちのイロニーは、それらを構造的にとらえ直すことなしには単なるレトリックか卑俗な表現技術にとどまってしまう。こうして一般にイロニカーとして承認されている名前をあげてみると、イロニーが哲学や文学の問題で美術や建築の問題としてはかげが薄いように見える。しかし今日表現であるよりも現象として捉えることになってしまったように見える建築という領域を、あらためて表現の問題としてとらえ直そうとするとき、イロニーの理解なしにそれを試みることはほとんど不可能であるようにさえ見えるのである。

 イロニーはすでに繰り返し述べてきたように、生と表現との矛盾と分裂にたいする認識を前提としているが、それは個々の生が全体性を獲得することによって存在しようとする行為として表現というものをとらえようとする場合である。このとき表現はさしあたって個体の生の時代的社会的対象化という形で展開する。ところがイロニーはあたかもそのような表現を妨害するかのように作用して、表現が決して全体性を表現することも、全体性を開示して個体を存在に導くことも不可能なことを暴き出そうとする。真の全体でないものによって個体の生が存在を偽装することを妨げるのである。個体と全体との断絶を露呈させることによって、表現は全体を導く力の無さをさらけ出す。しかしこのことによって個体の生の全体性の獲得、言いかえれば生の存在獲得の要求はようやく自覚的な領域に入り込むことになる。そこで再び個体―表現―全体、生―表現ー存在という表現の運動が始まるが、それはすでに昨日とは同じではない。表現をめぐるこの単純化した構図が導くのは、イロニーは表現の全体性やイデオロギーの全体性が、全体ではなく全体的でしかないこと、つまり全体の幻想でしかないことをその都度暴くものとして表現に内在する。」(『白井晟一研究供戞屮ぅ蹈法爾陵夕亜´供p75-76)

18:15 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
こぼれた話

                       

               「白井晟一と原爆堂 上」からこぼれた話

 

 2009年に借地権を失い30年近くを過ごした虚白庵から東久留米に移転した。移転したのは偶然、父が戦前住んでいた当時は東久留米村の南沢に隣接する町だった。ここはすぐそばに「自由学園」の広大な敷地が広がる町である。自由学園を開いた羽仁もと子さんの御一家も住まわれ、父が身を寄せていた近藤浩一郎の家もすぐそばだったようでつきあいがあり、もと子さんが父のことを気に入り娘の節子さんの婿に望まれたことがあるという話を本人から聞いたことがある。そのご節子さんが結婚された著名な思想家の羽仁五郎氏は、父の7年前に三木清とともにハイデルベルクのリッカート教授に師事している。

 戦後父が羽仁家と親交を結んでいた様子はなかったが、たまたま僕が越境で入学した目白の小学校の同じクラスに羽仁家の分家の息子がおり、目白の「自由学園」の敷地の中に住んでいたので遊びに行ったことがある。そんな縁もあったのでその頃戦前の南沢のことが話題になって記憶に残ったのであろう。大学生になってから父に進められて羽仁五郎の「都市の論理」を読んだのを覚えている。

 谷川徹三の「宮沢賢治論」は父に勧められたわけではなかったが、読んでいるのを見て「オオー」と言っていたのを覚えている。その時の話から谷川氏と面識があることは分かったが、後に「白井晟一研究」でご子息の谷川俊太郎氏と対談をしてもらったときに、二人の会話から徹三氏をよく知っていることが分かった。「背景 上」で戸坂潤や三木清、京都学派の人々を追いかけて本をあさっているときも徹三氏はさまざまな場所に登場していた。「研究」の当時は父の若いころの交流関係などにほとんど関心がなかったのでどのような接点であったのか仔細をたずねることはなかった。

 ご子息といえば和辻哲郎氏の御子息の夏彦氏が江古田にある武蔵大学付属高校に赴任され、近くだからと同じ江古田の滴々居に挨拶に来られたことがある。ということは和辻哲郎氏とも面識があったということだったのか。

 デザイナーの柳宗理氏の展覧会に父に連れられて行ったことがある。静岡の芹沢げ霹術館の設計を白井晟一にと芹沢氏に強く推薦したのは宗理氏だった。宗理氏の他の兄弟についても小さいころを知っていたようで、ということは柳宗悦氏とも面識があったということなのだろう。文人や芸術家が多く出入りして一時はサロン的なものにもなっていたらしい京都の近藤邸がその空間であったのかもしれない。しかし芹沢氏とも懇意だった水原徳言氏が書いたように白井晟一は民芸運動にシンパシーをもっていなかった。

 人格や情操そして思想形成の時期を白井晟一がどのような空間で過ごしていたのかということを、交流のあった人々との接点から探り、それがまたどのように「原爆堂計画」を準備することになったのかということを追うことが「白井晟一と原爆堂の背景 上」の主旨であったが、これはその虫食いだらけの「背景」のほんのわずかな補遺である。

 

21:52 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
プリミティヴについて (資料 白井晟一)

 シリーズ「白井晟一の建築掘/紊糧術館」の石水館の解説でふれた「プリミティヴ」について、白井は谷川俊太郎氏との対談(1982年 『白井晟一研究検戞砲膿鴫修靴新舛馬世鯏験している。これは「白井晟一全集」では再録されているが他ではあまり取り上げられていない。以下はその一部です。(2014年8月のブログ)



  60頁 
 ここは体制遵奉と創造的な批判精神相克のディレンマ釈明の場ではありませんが、いずれにせよこのままの専門家意識では「建築家のいない建築に住みたい」という痛烈な批判に対してどう答えられるだろうか。所詮、創造者として本然的自覚の貧窮という妾点をつかれてうろうろする姿しか浮かんでこないのではないかと身につまされるのです。
 建築、建築家というのは翻訳でしょう。もともと建築の歴史的経験も、したがってその論理的陶冶も西欧にくらべるとあまりに短い。文明開化以来、西洋文化に追いつこうというエネルギーと身を切るような努力、その成果は世界の歴史の中でも眼をみはらせるものだったに違いありません。しかし何度もなんども被虐の廃墟、革命の破壊をのりこえ、つくってはこわされ、つくってはこわされつづけた血のしたたる凄惨な経験がないということは、日本現代の文化の諸相に瀰漫するオプティミスティックでインスタントな性格をつくってきた大きな理由になっていると思うのです。
    
 中略

  62頁
 プリミティヴというのは、今ではいろいろな 創作世界の慣用語になっていますが、自然発生的な原型を漠然と想像しながら、結局は    様式論に還元、埋没してしまうのがオチのように思えるのです。
遠くは歴史の伝統的桎梏、近くて現代の物質的合理主義にゆきずまったネタ探しか、ようやく苦しい
創造論の文脈操作を支えるコンテキストにしかなっていないのではな いかと思います。これでは折角だが伝統回帰と異ならないし、もともと知的操作で凝縮晶化して根源的なものがつかめるなどと考えるような消極的な接木細工ではプリミティヴのエキスペリメントへの発展はのぞめない。
 プリミティヴというのは時間的にたとえ30世紀、50世紀あるいは歴史以前に溯り掘り起こしても、そこに原型があるというものではない。それは外にあるものではなく、自分の中で、生(なま)の感応によって創造のアニマをつきとめる他に青い鳥に遭遇する道は開かれないのではないでしょうか。 それは自己の中にかくれている創造的ポテンシャルのインスピレーションによってつかまえるしかないといえます。  


 蛇足ながら白井晟一が遺した対談は「白井晟一全集」(1988年 同朋舎出版)に殆ど集成しましたが、その中から大半が「白井晟一、建築を語る」(2011年 中央公論新社)に再録されています。この時の選択判断の意志や基準は明示されていないので不明ですが、全集では対談者の栗田氏の承諾が得られず掲載されなかった2編「詩と建築の原質」「建築と書」はこの対談集に初めて再録 されています。全集には掲載されているが対談集に再録されていなかった対談にも、今回その一節を掲載した谷川俊太郎氏とのものを含め貴重な内容のものがあり、以下の通りです。

      「西洋の壁」を突き破ろうとした建築家の哲学と作品:村松貞次郎 『Kitano Vision』 1969
     コンフリクトの発見:磯崎新 『白井晟一研究 機戞。隠坑沓
    白磁の壺:金両基 『白井晟一研究 供戞。隠坑沓
    詩と建築:    谷川俊太郎 『白井晟一研究 検戞。隠坑牽

また座談会には

   作家の側からみた建築家と建築の諸問題について:大高正人、丹下健三、徳永正三、林昌二、                                 浜口隆一。 『建築文化』 1957.07.
  〈現代建築の在り方〉についての考察: Plan’70 『建築論リポート』 南洋堂 1970
   建築におけるヨーロッパ近代と日本との比較思想史的考察: 同上 1971
      NOAビルを語るー白井晟一、勝見勝両氏を囲んで:有泉峡夫、井上晃、大平恵一、坂野長美、
    竹岡リュウ一、浜口隆一。 『日本デザイン年鑑』 1975   

インタヴューには

   「創造の鼎−白井晟一氏に聞く 1973. 『approach』
    白井晟一の『教材コレクション』 聴き手:神代雄一郎 『芸術新潮』 1976.09.
    歴史へのオマージュ 1975.09. 『芸術新潮』 
            虚白庵随聞:『白井晟一研究機戞。隠坑沓
   『石水館ー建築を謳う』 1981 かなえ書房
    
があります。                                     

15:48 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
遥かな時の彼方へ

 究極のコーヒーはわきがのにおいがすると聞かされたことがある。わきがが実はいい匂いだという話ではない。においというものの不思議の話である。残念ながら私はそういうコーヒーとまだ出会ったことはないが、モカ種の豆のように軽い酸味がコーヒーに妙味を与えていることをおもえばあるていど想像することはできる。

 わきがの強烈さには及ばないが、ドクダミのにおいのするコーヒーに魅了されていたことがある。ドクダミはなぜか汲み取り口のある湿った地面に群生していて独特なにおいを放っていた。ご不浄とよばれた便所のにおいを消す働きをしていたのかもしれないが

便所という場所を連想させるにおいでもあった。

 友人がもってきてくれたそのコーヒーを丁寧に淹れて最初に口にしたときは、おそらく落語の「ちりとてちん」の若旦那のように目を白黒させていたにちがいない。かなりの深煎りでトロッとしており、口に含むとドクダミのようなにおいが鼻から抜けるのである。しかしこれが次第に病みつきになった。焙煎している店主に電話でたずねると豆の種類は教えてくれなかったが、通常の何倍も時間をかけてじっくり焙煎するのだという。ドクダミのにおいが好きになったのではない。辛抱強い焙煎によってコーヒー豆の芯からひきだされた独特な芳香のする味わいに魅了されたのである。たいていのコーヒー豆は長い焙煎に耐えられない。焦げ臭を生んでしまうのだ。焦げ臭を出さずに濃厚な香味をひきだすには火加減ばかりでなくそうとうな辛抱と技術がいる。店主は手ごたえを感じていたにちがいない。しかし何年かして手間と時間がかかりすぎるからと作られなくなってしまった。

 その後も方々で似た焙煎豆を探しているが、軽さを求める時代の嗜好のせいもあるのか、箸にかかるものとさえ出会わない。技術主義が瀰漫する社会でありながら、マニュアル伝承の可能な技術ばかりで、鍛錬と経験がなければ成立しない技術には冷淡であるどころか、それを味わい楽しむ力さえ失いかけている。感性の委縮は文化の衰退に通じる。長年の試行錯誤を経て、豆を熟知する職人だからこそ彷徨うことになる匂いの迷路は、良し悪しの単純な区別など寄せつけない芳香と悪臭の入り混じる場所である。

 人が体から排出するものはたいてい悪臭の対象とされるが、他人の発する悪臭には我慢がならなくても、自分のものには愛情さえ感じるのが人という勝手な生き物である。この自と他の間に発生するズレがにおいの感じ方を複雑で不思議なものにする原因の一つかもしれない。

 さきほど触れた「ちりとてちん」は食通気取りの若旦那に腐った豆腐を舶来の珍味とだまして食べさせ、かれが目を白黒させながら「これは、どうも、乙だね」と言って見えを切る姿を笑いものにするというよく知られた落語だが、「腐豆腐」は実際の珍味として存在していた。発酵臭も腐臭の一種だろうが、納豆のようにそれを好まないあるいは不慣れな者には異臭や悪臭と感じられる。クサヤの干物や鮒ずしのにおいは強烈だがそのにおいの正体はくせの強いチーズのようでもあり、魚なのにチーズのにおいがするというミスマッッチが異臭と感じさせてしまう面もあるだろう。ナポレオンの逸話にもあるように、チーズのにおいはしばしば性的な連想をさそうものだった。排泄と隣り合う生理に関連したにおいであり、人を虜にするにおいの一つである。

 よく熟れて外皮がつぶれた銀杏のにおいはずばり糞便だが、それにも臆せず、地面の中で腐らせたり水洗いして熱を加えれば居酒屋の定番になる。異臭の残り香も風味に変わっている。味やにおいにたいする欲望は滑稽なほど際限がない。

 かくして人を惹きつけるにおいや香りは悪臭と紙一重であり、排泄を含む自分自身の生理と深く関わっているということは間違いなさそうである。生命そのものの矛盾や不思議を直接反映していると言うべきか。ヨーロッパの古典的な美学は味覚、触覚とならんで臭覚を低級な感覚としておとしめていた。お前たちは絵画も音楽も生まなかったではないかということなのか。ある哲学者はそれにならって、味覚と臭覚によって認識に歪みが発生したのだと言う。唐変木め。認識に歪みを発生させるからこそ素晴らしいのだ。においの、生命と直結した強烈な底力と奥行を低く見積もられてたまるものか。

 

 草むらに大の字に横たわり目をつぶる。草いきれが鼻をつき、悩ましい思いや不安で一杯だった青春の時へと連れ戻される。恋の甘く切ない感情が蘇って胸を締め付ける。

 頭で記憶をたどるまどろっこしさもなく、においはその香りの思い出の空間へと瞬間移動を実現する。「においはタイムマシーン」だと言ったのは私の父だが、ベルリンに留学していた時に、借りていた下宿にしばらくかれが滞在した時の言葉である。着いて間もなく探しているものがあるからと言って買い物に出かけた。いくつかの化粧品店でオーデコロンの蓋を開けさせ匂いを嗅ぐ。意外に早く見つかり、ヘアートニックや石鹸なども購入し、一週間が二週間にのびた滞在期間中つかい続け、かれの部屋にはその匂いがしみこんで、去ってからも長いあいだ消えなかった。

 オーデコロンの名前はサン・スーシーという当時は東ベルリンにあった城の名前をとったもので、とくべつ高価なものではなかった。白檀のような香りを含んだすこしオリエンタルな匂いである。それから三〇年あまり、奇妙な置き土産として私の手元に残った一本の「サン・スーシー」の香りは、蓋を開けると今でも、ベルリンのあの空間とそれに連なる日々の思い出を一気に蘇らせる。タイムマシーンのように遥かな時の彼方へ。人の不思議に根ざした、匂いの魔術である。

                                                      白井磨

 

(香りの専門誌[パルファム]「匂いの随筆」2011年6月 No.158  所収)

02:09 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
取るに足りない建築家の言葉

 「白井晟一と原爆堂の背景 下」では井上章一氏の論考「大東亜の新様式」をきっかけにして「原爆堂計画」の問題への展開を試みた。この論考はかれ自身が後記で書いているように建築界からは大分強い批判を受けたものだったようだ。しかし今頃になってあらためて部分的にとりあげたのは、この論考にたいする私の関心が,建築界からの批判とは少し位相が違っていると思ったからだった。一言でいえば、建築家と「言葉」の問題をどう捉えるかという点に関わっている。

 私が引用したフレーズは次の部分だった。「この企画は、後世から戦争協力の例として位置づけられる。そして、確かに、この企画にコミットした建築家たちは、大東亜戦争を賛美した。しかし彼らは、ただ賛美しただけである。戦争行為に関する具体的な協力は、なにもしていない。いや、むしろ非協力的だったとさえいえる。戦時下の建設活動に背を向けて、空想図面を夢に見る。この姿勢は、ありていにいって、戦争から逃避しているもののそれにほかならない。」

 「この企画」とは戦時中、岸田日出刀が「共栄圏内の各地要所に建設して、大東亜諸民族の今日の栄光と覚悟とを永久不滅のものたらしめようというのである」と言って、建築学会が行った「大東亜記念営造計画」コンペのことである。井上氏の主張はそれが、しばしば批判にさらされた「戦争協力」の対象となるようなものではなかったという点にあった。ただ調子を合わせて賛美しただけで戦争協力などと言われてはたまらない、と批判された人々にかわって弁証しているようにも見える。そこまでは納得するものも少なくなかっただろう。

 「ただ賛美しただけ」で「具体的な協力はなにもしていない」と言うのは何を意味しているのだろう。言論界では太平洋戦争賛美の言説に対して、戦後激しい批判が繰り返されたのは、それが「言葉」を専門とする領域であったからで、建築家を同じレベルで捉えるのはおかしい、いや間違っているという考えがこの主張の前提になっていて、言論文化人の言葉は武器ともなるが、建築家の言葉は取るに足りないと言っているのだろうか。

 いずれにしてもこの論からは、具体的に社会に影響を及ぼすものでなければ歴史の対象として論じるようなものではない、という考えが伝わってくる。問題は何が具体的であるのかという判断にゆだねられる。

 戦後を生きるものにとっては当然ながら、戦争は過去の歴史として記号化され、現実の生活との具体的な関係の中で捉えられる。戦中と戦後という表面的には分かりやすい線引きは指標としては便利だが、社会がそこで根本的に変わったわけではない。戦中が今の時代と無関係だというわけにはいかない。侵略的な性格をもった戦争に協調し賛美することが、戦争が終われば平和主義に替るということは戦後の日本では普通の一般的な現象であった。時代や政治に翻弄されて生きる一般市民にそれ以外なにができるだろう。しかし新しい時代や社会を主導する立場にいる者の、その主張や考えが何を根拠にどこから生まれてきたものなのかと言う点が、その主張や考えと無関係ではありえない。アイデンティティーとはそのことと関わっている。そこに否応なく共有した戦争という経験があれば、その経験と正面から向き合おうとしなかった言葉を信頼することは難しい。井上氏の批判から建築家の言葉は言論界のそれと比べても、取るに足りないもの、と読み取ることが出来るのは、今日の状態を見れば、読む側にそれを明確に否定することが出来ないからである。                                                       白井磨

21:46 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
白井晟一と竹内好 ユーラシアとアジア
 中国文学者竹内好(1910-1977)はヨーロッパ的原理とアジア的原理の矛盾と相克を日本近代のアポリアととらえ、それと向き合おうとしない戦後の文化を批判しつづけた。竹内の中国への関心と深い造詣、そして敬愛は、日本の近代を相対化してとらえる明確な視点に導いた。
 白井晟一(1905-1983)の場合は青年時にギリシャ哲学や近代哲学に親しみ、ドイツ留学時にはヤスパース、シュプランガーなどから学んだ経験をとおして、ヨーロッパは早くから学習の対象であり、また自己形成の糧となるものであったが、それがかれの日本の近代を相対化する思想の背景になった。しかし建築家としての初期の文章「華道と建築」(1951)「住宅思言」(1953)「縄文的なるもの」「豆腐」「めし」(1956)で述べられているように、白井はヨーロッパ近代を規範としてとらえることはなかった。そこで展開したのは日本文化の伝統の底から卓越した独自性を導き出そうとするものだった。また前記の文章にさきだって書かれた「天壇」「中国の石仏」は戦後の近代建築を担う世界では珍しくアジアへの視角を明確に示すものだった。
 「中国の石仏」では雲崗、竜門の仏像をとりあげて「西欧的美的完結性への偏執から解放」する「それらとは全く異種な」内的表現を指摘して称揚した。そして「シュペングラアの卓説に傾聴するより、タゴールの東洋的矜持を身につけることが難しいというのは筋の通らぬ話ではないか」と西欧文化への偏った傾倒と東洋文化理解の低調を批判している。
 早くに父親を失い、転々と居を移す義兄の家に身を寄せていた白井は、そのつど学校を変えねばならず勉学の集中に苦労したと話していたことがあるが、足してあわせれば長かったのは生地の京都であり、京都や奈良の仏寺を見て回ることも多く仏像にもつよい関心を抱くようになった。ガンダーラや北魏の仏像への一貫した趣向と情熱もそこから育ったものであろう。白井が「中国の石仏」を寄稿した「新建築」の1955年の10月号の表紙にはかれの提案で竜門石仏の仏頭の写真が使われており、建築雑誌の表紙として珍しい。(白井の3つの役場がこの巻で紹介されており、雄勝町役場はまだ計画の段階だった。その後建設されるが白井の計画とは大幅に異なるものになった。)
 晩年の白井はユーラシアという表現をすることが増えるようになる。東洋と西洋を対立軸としてとらえる観念的二元論を退け、ヨーロッパ、イスラム世界、東アジア、中国大陸、朝鮮半島、そして日本を、連鎖する繋がりの中で、ユーラシアという一つの空間世界でとらえる。それは太平洋戦争時、アジアを代表する唯一の近代国家と自負した日本が、「近代の超克」で見られるように、欧米を超えようと戦争を理念化した思考や意識を深く領有していた観念的二元論を克服する意志にも通じている。
 白井は竹内と異なり、このように西欧とアジアを矛盾相克するものとしてはとらえず、竹内の言うアポリアを共有することはなかった。竹内が戦後の日本でこそ根源的な問題として表れているという認識を示した「近代の超克」問題は、白井には最初から存在しなかったように見える。専門領域の違いだけでなく思想傾向の異なった白井と竹内が、戦後日本の近代主義に対する批判においては共通する点が少なからず見とめられるのは興味深い。

                             「白井晟一と原爆堂の背景 下」備忘的補遺  白井磨
01:30 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
シリーズ「白井晟一の建築 后廚隆行予定について
                 シリーズ「白井晟一の建築 后廚隆行予定について

2011年の「白井晟一展」を受けて企画をはじめ、2013年の5月から刊行をすすめていたシリーズ「白井晟一の建築」の予定した最終巻「白井晟一の建築 后廚錬祁酥召个鰺縦蠅靴討い泙后タイトルは「和風の創造」です。なおシリーズのEXTRA巻として企画してきた「原爆堂」は2017年に「晶文社」から発行予定です。以下は「后]舵の創造」のコンセプトです。
 

 白井晟一は「創造」の問題として日本の「伝統」を積極的に論じている。その伝統論は「伝統」を典型や様式でとらえるのではなく、日本文化の独特な原思想ともいえる潜在的な能力に目を向けるものだった。伊豆の江川邸に縄文的なポテンシャルを見、「豆腐」に「渾然とした調和」の完全な単純を、「めし」には共同体を支える犠牲の「愛」を見る。閑隠席のような「簡素」の創造に日本建築の真髄をとらえるが、その一方で利休の数寄に「私的価値に釘付けした錯覚や虚栄の原型」を見、「私」に収斂する「好み」の美学を退けた。
 日本の近代建築はヨーロッパとアメリカからの輸入である。太平洋戦争の敗戦を経て戦後の日本ではそのような欧米の近代建築がめざましく発展した。かれの伝統論にはしばしば欧米の近代文化への追従と模倣に対する厳しい批判がともなっている。白井にとってヨーロッパはギリシャ・ローマ以来の全体としての空間であり、同時代としての近代はその中で対照化される。それは学ぶべき世界であると同時に、たたかい突き抜けなければならない壁として意識化された。
 日本の伝統文化に内在する独自性と卓越性にたいする理解は揺るぎがなかった。幼年時代の禅宗と書の経験が壮年期に入ってからの仏教の学習や書の鍛錬にあらためて向かわせたのであろうが、そこから日本文化の伝統の底にあるものへの関心や理解もさらに開かれたのではなかったか。かれの「和風」の特徴は伝統の近代化や伝統の継承ではなかったところにある。目指されたのは「日本的創造」としての「和風」であり、「豆腐」に見たような、あらゆる部分が緊密に結合して「渾然とした調和」に全体が統一される空間だった。

 本シリーズの「塔」「水」「自邸」「初期」とならんで白井の建築を解析するキーワードとして「和風の創造」をとりあげた。


(なお解説は前巻の続編として、戦時下の3つの座談会などをとりあげ、彼自身の伝統論を含め白井の「原爆堂」の意想の背景となったものを追います。)


 
17:36 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
広島発「原爆堂計画実現基金」
 先日11月20日JIA広島地域会の主催するトークセッション「被爆建物と原爆堂計画の未来」に参加させて戴いた。会場は村野藤吾設計の広島平和記念聖堂だった。オルガンの演奏会のあと、岡河貢氏の傾聴すべき講演があり、そのあとひろしま未来協創センターの木原一郎氏と白井に岡河氏が質問する形で進められた。ここでご紹介するのはトークセッションの内容ではなく、その際配布された広島地域会のいわば宣言文である。

                                    原爆堂計画実現基金
                                         設立主旨
 
 私たち広島で建築設計活動をする建築家にとっては広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。被曝70周年の本年、核兵器の脅威が風化する中であらためて、未来の世界の永遠の平和への宿願である核兵器廃絶という人類の安全保障のために、私たち広島の建築家が未来にむけて何をするべきかという答えとして建築家・白井晟一の残した原爆堂計画の実現にむけて基金を設立し募金活動をすることにいたしました。
 原爆堂計画は1954年南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁において実施された水爆実験に衝撃を受けた建築家白井晟一が1955年に核兵器の存在を人類に建築造形を通して問いかけることで、人類の共存の希望を願うメッセージとして発表されたものです。白井晟一はこの計画の実現を夢見ていたのですが未だにこの計画は実現されていません。私たちJIA日本建築家協会広島地域会は建築家白井晟一の夢を引き継ぐことで、いつの日か原爆堂計画が実現され、人類が核兵器の廃絶された世界で共存することを希望して、原爆堂計画の実現にむけた努力を被曝70周年記念に被爆地である広島で開始いたします。
        2015年11月20日 JIA日本建築家協会中国支部広島地域会

 注目すべきは、冒頭で述べられているように「広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。」というような社会や文明に対する明確な建築家としての自覚と意志を表明するといった、戦後の日本では稀有な宣言が行われたことである。そして地域の歴史と経験に根差したものであるからこそのアクチュアリティーが、核兵器廃絶という問題の普遍性をとおしてどこまで広がりを獲得していくことができるのかという点である。
23:50 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)

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