プリミティヴについて (資料 白井晟一)

 シリーズ「白井晟一の建築掘/紊糧術館」の石水館の解説でふれた「プリミティヴ」について、白井は谷川俊太郎氏との対談(1982年 『白井晟一研究検戞砲膿鴫修靴新舛馬世鯏験している。これは「白井晟一全集」では再録されているが他ではあまり取り上げられていない。以下はその一部です。(2014年8月のブログ)



  60頁 
 ここは体制遵奉と創造的な批判精神相克のディレンマ釈明の場ではありませんが、いずれにせよこのままの専門家意識では「建築家のいない建築に住みたい」という痛烈な批判に対してどう答えられるだろうか。所詮、創造者として本然的自覚の貧窮という妾点をつかれてうろうろする姿しか浮かんでこないのではないかと身につまされるのです。
 建築、建築家というのは翻訳でしょう。もともと建築の歴史的経験も、したがってその論理的陶冶も西欧にくらべるとあまりに短い。文明開化以来、西洋文化に追いつこうというエネルギーと身を切るような努力、その成果は世界の歴史の中でも眼をみはらせるものだったに違いありません。しかし何度もなんども被虐の廃墟、革命の破壊をのりこえ、つくってはこわされ、つくってはこわされつづけた血のしたたる凄惨な経験がないということは、日本現代の文化の諸相に瀰漫するオプティミスティックでインスタントな性格をつくってきた大きな理由になっていると思うのです。
    
 中略

  62頁
 プリミティヴというのは、今ではいろいろな 創作世界の慣用語になっていますが、自然発生的な原型を漠然と想像しながら、結局は    様式論に還元、埋没してしまうのがオチのように思えるのです。
遠くは歴史の伝統的桎梏、近くて現代の物質的合理主義にゆきずまったネタ探しか、ようやく苦しい
創造論の文脈操作を支えるコンテキストにしかなっていないのではな いかと思います。これでは折角だが伝統回帰と異ならないし、もともと知的操作で凝縮晶化して根源的なものがつかめるなどと考えるような消極的な接木細工ではプリミティヴのエキスペリメントへの発展はのぞめない。
 プリミティヴというのは時間的にたとえ30世紀、50世紀あるいは歴史以前に溯り掘り起こしても、そこに原型があるというものではない。それは外にあるものではなく、自分の中で、生(なま)の感応によって創造のアニマをつきとめる他に青い鳥に遭遇する道は開かれないのではないでしょうか。 それは自己の中にかくれている創造的ポテンシャルのインスピレーションによってつかまえるしかないといえます。  


 蛇足ながら白井晟一が遺した対談は「白井晟一全集」(1988年 同朋舎出版)に殆ど集成しましたが、その中から大半が「白井晟一、建築を語る」(2011年 中央公論新社)に再録されています。この時の選択判断の意志や基準は明示されていないので不明ですが、全集では対談者の栗田氏の承諾が得られず掲載されなかった2編「詩と建築の原質」「建築と書」はこの対談集に初めて再録 されています。全集には掲載されているが対談集に再録されていなかった対談にも、今回その一節を掲載した谷川俊太郎氏とのものを含め貴重な内容のものがあり、以下の通りです。

      「西洋の壁」を突き破ろうとした建築家の哲学と作品:村松貞次郎 『Kitano Vision』 1969
     コンフリクトの発見:磯崎新 『白井晟一研究 機戞。隠坑沓
    白磁の壺:金両基 『白井晟一研究 供戞。隠坑沓
    詩と建築:    谷川俊太郎 『白井晟一研究 検戞。隠坑牽

また座談会には

   作家の側からみた建築家と建築の諸問題について:大高正人、丹下健三、徳永正三、林昌二、                                 浜口隆一。 『建築文化』 1957.07.
  〈現代建築の在り方〉についての考察: Plan’70 『建築論リポート』 南洋堂 1970
   建築におけるヨーロッパ近代と日本との比較思想史的考察: 同上 1971
      NOAビルを語るー白井晟一、勝見勝両氏を囲んで:有泉峡夫、井上晃、大平恵一、坂野長美、
    竹岡リュウ一、浜口隆一。 『日本デザイン年鑑』 1975   

インタヴューには

   「創造の鼎−白井晟一氏に聞く 1973. 『approach』
    白井晟一の『教材コレクション』 聴き手:神代雄一郎 『芸術新潮』 1976.09.
    歴史へのオマージュ 1975.09. 『芸術新潮』 
            虚白庵随聞:『白井晟一研究機戞。隠坑沓
   『石水館ー建築を謳う』 1981 かなえ書房
    
があります。                                     

15:48 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
資料1951・秋ノ宮村役場竣工式スピーチ草稿
 2012年2月5日に当ブログにアップしたものですが再アップいたします。 これは書籍、雑誌等の印刷物としては公表されていないものです。

 終戦から間もない1947年頃から秋田に通い始めた白井が羽後病院の後、1951年に竣工させた秋ノ宮村役場の竣工式に際して四枚の便箋に用意したスピーチの草稿である。これが実際に読み上げられたものか、あるいは同様の内容が語られたものかどうかは不明である。ここで語られていることからも推測出来る当時の歴史は、掘り起こされ意識化することもなく埋没したまま、いまやその建築が旅館の施設として卓球場になっていることを怪しむ事もない現実はこの草稿でも触れられている戦後間もない当時とどこか似ている。

                

 「御待望の役場が本日竣工式に至りましたことは実に御同慶に堪えないところであります。御承知の様に着工いたしましたのは、昨春秋之宮周辺の山々の楓も散り、枯枝には終日北風が吹き荒ぶ頃でした。それから間もなく陰惨な時雨や、霙の降る日、一間先も定かでない烈しい吹雪の日さえも、この仕事に従事する人達は一所懸命に働き通しました。私も屡々屋根のない馬橇に乗り、ある時はゴム靴をはいて横堀からの雪の道を往復、皆様をはげまし、慰め合ったのです。長い冬が漸く去って山々の肌が蘇生し始めた頃でさえも、ぬかるみの道と、じめじめした現場での仕事は並大抵のことではなかったと思います。当事者の郷土を愛する心、文化の向上への志はやがて訪れた花にも、新緑にも見かえることを忘れさせ、只管丹精の日を続けられました。困難も隘路も次々に戦いとられました。時には私の不遜な態度にもかかわらず、唯、一筋の確信を諒解されて、私の命ずるまま、些かの疑いも迷いもなく謙虚に励み徹されたのであります。この誠実と苦闘の半年が結実してこそはじめて今日のよき日を期し得られたのでありましょう。今、私は感懐を新しくして過ぎ越し日を回想し、これらの方々とよろこびあいたいと共に、あらためて衷心御礼とお詫びの意を表したいと存ずる次第であります。

 さてこの仕事に就いて、はじめに村の幹部諸子とご懇談致しました時のことは残念ながら非常に不快な思いででありました。かつて経験したことのない非礼な、冷淡なその空気の中では、小生としては、到底この仕事に参加し得ない、従ってこの村の文化推進などということはまだまだ時機尚早で一先ず断念せざるを得ないとさえ考えたのです。然し不思議に機縁は去らなかったのであります。少数の方々の熱誠が、小生をこの計画に繋ぎ止めたのです。私は屈辱を忘れなければなりませんでした。それで驚くべき取り決めにもかかわらず、これらの方々の熱誠に報ゆるため、如何なる条件のもとにおいても甘んじてこの計画に参加することを決心するに至ったのです。

 却って清々しい気持ちになった私は、その時からすらすらと構想をまとめ、間もなくこの仕事の精神を確立することが出来ました。私は先ず村の老若男女の魂を和らげるに足るような美しい建物であること、同時にそれは正義のためには如何なる権力にも抗する気魄を表わし、悉くの村民がこころから頼り甲斐のある様な毅い姿をもっていなければならぬと考えました。例えば大きな切妻を選んだ素因の如きは、皆様にもめずらしくない秋之宮の多くの民家に通有な屋形から得たものでありますが(村民一人一人の自由と尊厳、幸福と向上のために村政を練り施策を合議するにふさわしい会堂の空間造形として)外ならぬ此の土地から生じた素朴な姿を主題となしえたことは、先ず誤らなかったと信じております。若し今日、出来あがりましたこの建物の姿の中に、私の企図しました様な精神を些少でもお見とり下さるならば小生の光栄とよろこびは之に過ぎたるものはありません。

 さて斯かる由来にてこの建物は出来あがったのですが、この建物の意味が唯一建築家の空間造形に終わってしまってはならないのです。この建物がほんとうの意義を発揚する様にならなければ、之は徒に無用、魂のない空骸にすぎなくなり、この仕事に携わった人々の汗は、何のために流され何のために骨を砕いたのかそれこそ禍かなであります。小生等の**は今日皆様にお引き渡しすることによって一先ずおわりました。然し皆様のこの建物に対する責任*は今日から始まるということを御銘記いただかねばなりません。

 西洋には古くから「総ての長は総ての僕なり」あるいは又、noblesse obligee などという言葉があります。之は衆の上に立つものは、また同時にそれだけの義務を負うているものだという意味合いであります。今までの日本は、上に立つ者の非人間的な圧迫と、之に慣らされ甘んじ隷従する庶民のかなしき歴史に満ちております。敗戦を契機としてその様な間違った人間同志の関係ならわしからは漸く脱皮しかけてきたと云われるものの、まだまだ人間の自由とか尊さというものは確立されているとは云えません。西洋からきた「リバティ」或いは「デモクラシイ」とかいう言葉も、人間同士の人間相互の『いつくしみ』を体得せぬ限り、それらはただ軽薄な猿真似の空文にしか過ぎないのです。(義務の自覚)と(精神と倫理)を見につけることが、選ばれた民族となり得る最も大切な道であります。私はこの建物の竣工に及んで、大方の村民、殊に議員職員の如き村の幹部各位にお願い致したいのは、この『いつくしみの心』に常時省みていただきたいことであります。建物はいくらよく出来てもそれのみにては漸く*った皮膚としまった筋肉にしかすぎません。健全な内臓があってはじめてこの新築の役場が生命あるものとなります。この内側が『いつくしみ合う心』です。皆様のご努力の結晶が、村民の悉くのために心の道場となり。この後生まれ成長する新しい世代の人々のために、いつまでも誇り高き故郷の役場となって貰えます様、従ってこの仕事に従事したものの光栄の永続的なものであることを希いつつ、このよき日に当たって長き御**の口を*すると同時に**皆様の御精励並びに断えざる御反省を期待する次第であります。卒爾ながら之をもって竣工式御祝いの言葉と致したいと存じます。」
©白井晟一研究所

(現代漢字および仮名遣いに大部分変更。*は判読出来なかった文字を示す。白井晟一のエセー集『無窓』には、これに関連している「おもいで」および「地方の建築」という二編の文が載せられている)


21:47 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
聞書・創造の鼎 白井晟一の遺した言葉 
 一つまえのブログで触れたように、瀬底恒氏が企画して掲載したものと思われる「聞書・創造の鼎」は白井晟一全集の別巻に収録しているが、この本も手に入りやすいものではなくなっているので、ブログの場で再録させて頂くことにした。竹中工務店の雑誌 approach の1982年の春号で、この雑誌はクライアント向けに作られてきたものと思われるが、白井は明らかに建築の製作に関わる、建設会社の若い人々に向けて語っている。この企画は銀座の鰻料理店「竹葉亭」で開かれたもので、最後に記されているのはその座敷に掛けられた軸や鰻の蒲焼をめぐってのものである。

 
                         創造の鼎

 建築とはどういう仕事なのか、どんな人間関係でできていくものなのか、もう一度考えてみる必要がありますね。われわれが建築をやるのに、まず需要者がいる、そして設計者がいて施工者がいるわけですが、これはちょうど鼎の三本足みたいなもので、それぞれが他の二本の脚や全体のことを見ないで、自分の目先の利益だけを考えていたのでは成りたたない。この三本がひとつになって良いものをつくっていくんだという、確たる出発が最初にあるようでなければだめです。われわれが生きているこの時代や社会の質になるものは、三者がひとつの力になり、全うしてはじめてクリエイトされうるんだということですね。

 まず需要者ですが、資金を出して、数字に現れるだけの利益に還元されさえすればいいんだというのではなくて、設計者や施工者と一緒に、自分たちの文化の内容になるものを、つくっていくんだという自覚が必要です。設計や監理を建築家に依頼するというのは、そういう義務や責任があるんで、それを自覚しなければいけません。建築家もそういうところから出発して、需要者について理解しながら、その足りないところを補っていく力量がなければ、建築家とはいえない。需要者と設計者という二者の間にも、十分な信頼と尊敬がなければいかんわけですよ。ところが現実にはそういう地盤がない。つまりお互いに理解し合う共通の地盤がないだけでなくて、両方ともその努力をおこたってきた。公共的な建設の場ですらそれがひどいですね。需要者の方に、確かな文化の質に関する信念も認識もない。すでにそういう事業を計画できる立場の人たちにすら定見があるとはいえない。勉強もない。文化意識とまでいかなくても、美とか真実という人間の求めている最も大切なものにすら訓練があるとは思えない。根は深いですね。

 建築家はそういった需要の上にあぐらをかくんではなくて、彼らとひとつになって作業の方向をつかまなければならないし、その過程で他の脚を触発できるような不断の精進が必要です。建築家とは大工、左官ではない。ひとつのシンフォニーのタクトを振って、どの弦の末端の音でも自分の願うものにして、その全体を統一したハーモニーにもっていくことが仕事なので、そういう力をもっていなければならない。需要者を納得させる力、尊敬信頼される内容は何かということ、そういった日常の鍛錬、裁量していく肚をもっていること、それが指揮者であり、建築家なので、それでなくてどうして建築家といえようというところですね。施工者についても、需要者すなわち、お客と施工者=商人という昔からの関係を続けているようでは相変わらずになります。文化の質となるものをつくる鼎の一本なんだという確信をもっていれば同等に話し合いできるはずで、もみ手の取引はいけません。

 需要者、設計者、施工者の間に間違った階級意識のようなものがあってはいけません。自分たちの歴史や文化のつくっていくものを、それぞれ参加の仕方は違うけれど、共に力を協してつくっているんだという同じ誇りをもっているはずなのです。自分の仕事に確信を持って、やりがいを感じられるようでなければ、いいものはできないですよ。誇りを持つというのは、裏返せば自分に厳しくなければならぬということだし、それだけの勉強も要る。誠実を尽くさなければそこまではいけない。大きい看板をもった所員だからといって、それは誇りでもなんでもない。誇りというのはあくまでも自分のしていることに確信がもてるかどうかということ以外にない。このことは施工者も需要者も設計者も同じです。建築の質というのは、それに参画した人たちが、どこまで誇りをもって全うしたかということで決まってきます。

 専門の学校や大学で四年や五年勉強したからって、建築ができるわけではない。そう手っ取り早くできるものではないということを学ぶのが学校だと思うんですよ。建築の造形にしても、社会的な意味、あるいは歴史を背負っている文化の象徴としての建築に対しているものだということ。それがいかに大変な仕事かという畏れを知るために大学へ行く。人間が自分たちの文化を育てていくためには、どれほど熾烈な戦いをしてきたか、そういう歴史の内容を勉強するために教育が要るんだ。大学を出てもらったところで、鉋ひとつかけられるわけじゃない。われわれだって、釘ひとつまっすぐには打てない。けれどもそのような作業のどのような末端までも理解していないで建物ができていくというのは、ほんとうは不思議なはなしです。鉋をかけ、鋸をひく人たちと同じ場に自分を置くことができ、技術だけでなく人間の勉強をすることにこそ、専門教育数年間の意味がある。実際に建物をつくっていく力の蓄積は、むしろ学校を出てから、たくさんの経験を重ねながら身についてくるものです。

 ところが教師の方も、その大事な「姿勢」つまり技術者としての根本的態度をわきまえさせようというような気構えがない。すでに教師自身にそういった「畏れ」を知るための勉強も経験もない。私はよく若い人たちに、建築は徹頭徹尾物質なんだといってます。このことは、物質を血が通っていないもの、心を持たないものとして扱うことにすでに問題があり、またその物質を使って、生きものでない建築という物質をつくる作業だとしていることが、根本的な間違いだということを理解させたいからです。物質は言葉も怒りも発さないが、それこそ「無心」の犀利をもって、つくっている人間を観ている。施主も設計家も施工者も実は向う側から見られている。常にその質をとわれているのです。呪術や詐術で生きた建物に魂をふき込むことはできないということですね。

 今日の教育が、こういった社会の経済構造と不倫な連携の中で成長していく生産のために、創る人間の尊さも望みも無視しつつ、一方情報化社会のインフォメーションにすぎない、そういうところでいつまでも低迷していては困ります。教師もそういう仕組みの中であぐらをかいていないか。せっかくの建築家の卵も、こういう教育の場では健康には育ちません。

 今日の建築がつくられていく人間的な仕組み、教育などがこのような課題、むしろ錯誤で、もうあとのない断崖まで追いつめられているように思います。せっかくの経済成長も、文化の質として蓄積されたものは希有に近い。世界の二流、三流といわれる国々へ行ってみてつくづく感じるのは、自分の国、富める一流国の貧しさです。

 日本の建築技術は世界のトップ級だという人もあるのですが、私は日本の富の内容と同じような何か寒々としたものを感ぜざるを得ないのです。われわれは、技術にしろ、文化にしろ、安易にナショナリズム謳歌に向かうような驕慢は許されず、根本的に人間の問題へ戻って、初歩からぶつかっていかなければならない。それこそ、さしせまった時にきていることを、わきまえなければいけません。


 これはたしか河内の慈雲尊者の書だと思うんですが、こういった禅語の一行がよく茶事には使われますね。美的生活に凝縮させる空間で、「無事之貴人」に大切な主役を演じさせる。秀吉がつくった金箔貼りの茶室だったら、逆説、シニックなどという現代書生の直線的な、それこそ茶道人に叱られそうな次元の低い理解でも、かえってたのしみがあるかもしれないのですが、さして欲張っているわけでもないのに、こうして「無欲な人こそほんとうの貴人だ」と背中から一喝されながら、日本中でいちばんうまいといわれている鰻をごちそうになっているのは、なんともくすぐったい気持です。たぶん塩粥でも喫したあとでこの一行は書かれたでしょう。それが二百年後に、こうして天下の料亭の床の間に現れるだろうなどとは、さすがの尊者も考えなかったでしょう。

 禅家でいわれているように、「無事」とは無欲のことだとしますと、今われら食鰻居士は、入るべき穴を探さねばなりません。しかし、もしも慈雲さんが、人生究境の目標はあらゆる対立、因果を越えた真実への帰依にあるんだ、つまり生命の真相を自覚することを「無事」だといってくれるんだとしたら、この一行書から、十分ありがたい示唆がいただけるわけですし、せっかく腹中の鰻公にもまさに浄福ありということになります。

                              「approach」1973.spring 竹中工務店発行 より
02:30 | 白井晟一に関する資料 | comments(1) | trackbacks(0)
瀬底恒と白井晟一
 昨年11月に竹中工務店のギャラリーで「瀬底恒」氏の展覧会やシンポジウムが開催されていたことを、今頃ネットで知った。
1978年だったと思うが、民芸の芹沢けい介氏の名代で、白井晟一とは旧知の水原徳言氏が虚白庵に来られ、芹沢氏がコレクションや型絵染の作品を静岡市に寄贈されることが決まり、それを収蔵展示する美術館の設計者を、静岡市が芹沢氏に一任したので、その設計をお願いしてもいいだろうか、というものだった。水原氏は雑誌の「民芸」にも時々寄稿されるなど、民芸の世界とは古くから親しい関係にあったので、当時はすでに白井についての評論を描かれたり、書物を表わしたりされていたことを知っていた芹沢氏がその折衝を水原氏に依頼されたのであろう。
水原氏は白井が民芸嫌いであることをよく知っていたので、これは困ったことになったと思われたと私に話されたことがある。それでもしかしたら水原氏の入れ知恵でもあったのかもしれないが、芹沢氏が自分の美術館が建設されるにあたって、自分の作品が民芸という枠で括られることに疑念しており、民芸的ではない美術館こそ望んでいる、というのが白井に対する水原氏を通して伝えられたいわばコンセプトだった。
それに先だって、このとき芹沢氏に白井を推挙したのが、柳宗理氏と瀬底恒氏だった。白井は義兄の近藤浩一郎との関係なのか柳宗悦氏とも面識があったようで、子息の宗理氏を若い頃から知っており、かれの展覧会にも出かけそのデザインを高評価していた。またデザイン界の隠れたフィクサーであったらしい瀬底恒氏とも、おそらく勝見勝氏などを通して知りあっていたと思われる。
この美術館―静岡市立芹沢けい介美術館(石水館)の設計建設に際して、担当した私が芹沢氏には何度かお会いしたが、芹沢氏と白井が顔を合わせたのは、敷地を見るために集まった時の一度だけだった。全てをお任せしたのだからと、芹沢氏も白井との会見や打ち合わせ望まれなかったようだった。それから暫くして、倉敷の大原美術館で開催されていた芹沢けい介展に私も同行して訪れ、設計の構想がかためられた。
この美術館が竣工して間もなく、竹中工務店の雑誌 「approach」 の編集もされていた瀬底恒氏が私を急に訪ねられ、ヴァイキングの伝統と木造建築という特集に文章を書くようにと言われた。その数年まえに私が兄と翻訳して、白井晟一が装丁し、形象社というところから出版した「西洋木造建築」に書いた文が気に入ったからというものだった。(「ノルウェーのシュタープ式教会」1982、春)それで芹沢美術館の設計や建設の間には一度もお会いする機会のなかった瀬底氏とこの時初めて、そして最後にお会いすることになった。
approach 1973年の春号では「創造の鼎―白井晟一氏に聞く」という表題で白井が登場しており、この時も当然瀬底氏が企画し同席されていたものと思われる。(「白井晟一全集」別巻機愬魄聒隶譴隆祗機戞。隠坑牽検‘永舎に収録。)
14:40 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
サンタ・キアラ館
            
                
  

 最近サンタ・キアラ館を見学に訪れる人が多いのだという。茨城県日立市の大甕(おおみか)町にある茨城キリスト教学園の中の短大の校舎として1974年につくられた白井晟一の作品の一つである。「建築」誌の1975年1月号でも村井修さんの写真で発表されており、白井晟一が短いコメントをのこしている。
 私にとってはクライアントとの折衝や設計図の作成、現場の監理などを一貫して初めて任せられた思い出深い仕事だった。現場へ出かける時は竹中工務店設計部の上山英雄さんが、いわば私の後見人として必ず同行して下さり、私と現場との間に立って努力して下さった。また現場主任の篠田さんの気難しいが誠実な取り組みに負うところも大きかった。以下のコメントに竹中工務店の名前が記されているのは、そうした事情を踏まえて感謝の気持ちの表れでもあったのだろう。
 ちなみにこの学園の高等科は兄の母校であり、そのときの友人や恩師が機縁となって設計が依頼されたものであり、サンタ・キアラに先立って建設されたサン・セバスチアン館はその兄が担当している。また「建築文化」誌では布野修司さんが建築評論の処女作として論じられている。
 サンタ・キアラとはアッシジのサン・フランチェスコに終生伴ってかれの純粋な布教を支えた聖処女クララのことである。聖フランチェスコは教会の政治権力化と巨大組織化を厭い、自らは一切の所有を否定し、ボロ布一枚ですごし、最後にはその布すら廃棄して無一物となって死に臨んだ。ローマ教会の教条主義を批判し異端の烙印すれすれのところでしかし教会との対立は避け、法王の認可を得る。小鳥と話す姿が有名だが、かれの純粋な信仰と布教の実践が、その後教会の存続をむしろ支える力となった修道院運動の精神の礎を築いた人物である。
  
            

「建築」1975.01.より

 学園キャンパスは、万葉の古跡である甕の原の裾がゆるやかに、大洗海岸へのびる景勝の敷地を占めている。1972年秋に第一校舎・サン・セバスチャン館が竣成、このサンタ・キアラ館はその第二棟である。セミナー教室が主眼で、その中の大教室は礼拝堂を兼ねたいという学園側の意求であった。
 この学園は無教会派に属し、教旨はセクトや儀礼にかかわることのない淡白な学風に出ていると推察していたが、なによりもまず人生の最も多感な期を托する短大女子学生の情操涵養をつつむにふさわしい学燈空間をつくることがわれわれの仕事だと考えた。
 着工は、1974年1月、同10月竣工、竹中工務店の素朴だが入魂の施工である。建築面積は約千平方米、躯体は鉄筋コンクリート・ラーメン構造、見えがかりは煉瓦、カスケード松、スタッコ、及び擬石はつり仕上げ。
 献堂式には、白衣コール団の清澄・敬虔、しかも繊美な韻律を響かせた大合唱を聞かせてもらった。われら報われたりと泪ぐむ感銘であった。
                                               1973年1月 白井生

                       ©村井修
   
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ブログBN 白井晟一のエセーと言葉
 ブログバックナンバー 白井晟一のエセーと言葉

2010.09.19.  「ララミー牧場」
     09.21.  「タバコのうらみ」
     10.21.  「明窓浄机」
2011.04.22.  「住宅思言」
     06.18.  「虚白庵随聞」(白井晟一に聞く)
     06.20     同上
     06.22.    同上
     06.24.    同上
     06.25.    同上
     09.12.  「好きな色」
     09.23.  「花の砦」
2012.02.05.  資料1951 秋之宮村役場竣工式スピーチ草稿
     03.05.  私と白井晟一・一通の手紙
      
23:20 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
「原爆堂」について触れられた最近の記述、論稿
    京都新聞 2011.06.16.「現地集合1 福永信といく美術館」
 
 今回の展示の目玉は「原爆堂」だろう。テーマごとに整理された展示ルートが、ここだけ途切れ、濃密な彼の思考の中に迷い込んだようだ。丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」がきっかけとなって設計された、計画案のみの「作品」である。だが3・11を経過した今、これは過去のかなわなかった建築ではなく、むしろ未来の建築として映る。「われわれはポツンと地球に現れてきたわけじゃない。膨大な歴史を負うている」「これを軽視してきたところに批判精神の成長しない禍根がある」。掲示されている白井の言葉が暗い一室に重く響く。                                      福永 信

      京都新聞 2011.07.30.「凡語」 幻の原爆堂
     
水の中に立つ円柱が巨大な四角形を突き抜ける。心安らぐ建造物ではない。むしろ、突き付けられような厳しい造形だ。京都工芸繊維大(京都市左京区)で開かれている建築家白井晟一(しらいせいいち)の展覧会で、幻の「原爆堂」を見た。
 
白井は1905年京都に生まれた。京都高等工芸学校図案科を経て留学後、建築に携わった。戦後、モダニズム建築の動きが席巻するなかで素材感のある哲学的な作品をぽつりぽつりと発表し「孤高の建築家」と呼ばれた。
 
54年、画家の丸木位里、俊夫妻が自作の「原爆の図」のための美術館構想を持っていることを新聞で知った。依頼もないまま、すべての仕事をなげうって設計に没頭した。
 
翌年、原爆堂計画を世に問うた。建物と広場をつなぐとキノコ雲にも見える衝撃作。建築家が原爆を主題とした姿とともに反響を呼んだ。原爆投下から10年、水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びた時期とも重なる。
 
息子で建築家の白井磨(いくま)さんは「戦後の日本の社会と文化に対する本質的な批判」とみる。結局、原爆堂は着工されず実際の建造物では「親和銀行本店」(長崎県)などで思いの一端に触れられるのみだ。83年、京で没した。
 
残された設計図は、核兵器廃絶を求めながらも核にほんろうされた戦後の日々を見つめてきた。今再び向き合う。核の「平和利用」を進め未曽有の事故に遭遇した私たち。時を越え、白井の怒りが伝わってくる。

            読売新聞日曜版 2011.08.14.

宙に浮かぶズングリ重たい直方体を円筒が突き抜け、支える。その円筒は四角張った人工池の中央で静かに佇立する。池の一辺に沿い巨大な不正円の広場が開け、上から眺めると全体世界はキノコ雲の形状をとる―白井が1954年から55年にかけ、複数のデッサンと図面で表した「原爆堂」である。
〈永続的な共存期待の象徴をのぞむには(略)眼前に表れたことのない造形のピュリティがなにより大切〉。堂の意図を自らこう記した。

原爆という途方もない悲劇をしっかり受け止め、さらにその悲劇を乗り越える力(共存期待)をつかまえたい。震災や原発事故に揺れる今、その思いの重みをかみしめる。              宇佐美 伸

                                

高橋達明 「オルペウス、ミュートスの誕生」新版あとがき 2011.11.知道出版

(前略)かつて、TEMPLE  ATOMIC CATASTOROPHS(1955)というパンフレットが作られた由で、『白井晟一研究』弦罎坊悩椶気譴討い襪里鮓ると(原図は図集犬砲△蝓法△茲話題にされるキノコ雲もさりながら、透視図の原爆堂と水にゆらめくその白い影との鬼気迫る姿に心の流れを断ち切られたような思いがする。これは異界である。人が死という地下道を通って入る先は、この世ではなく、異界という、もう一つの現実なのである。(中略)

白井晟一の原爆堂は、もし実現していたなら、名の通りの原爆の堂に、悲劇の厳粛な経験をはぐくむ場所となったにちがいない。原爆堂の創造は歴史の批判の形象化であった。


岡崎研二郎 「芸術の条件 白井晟一という問題群(前篇) 美術手帖 2011.02

(この論稿は全体にわたって原爆堂が解析されており、以下はそのほんの断片である。なおこの論稿は3.11.の二か月以上まえに脱稿されている。)

(前略)いずれ、この《原爆堂》計画が、遠目で見て核分裂の姿を、近目で見て、原子炉の構造を模しているといっても、おおよそ見当違いではないだろう。

すなはち《原爆堂》は、その英文パンフレットの川添登テクストにさりげなく挿入された白井の言葉通り、核エネルギーが生み出される機構自体こそをモチーフにしている、そうみなすことができる。

韮山の江川太郎左衛門の溶鉱炉(そして住宅)に、あらゆる世俗的な領域化にも収まらない縄文のエネルギーを見出した白井が、核エネルギーに託したものは、同じくいかなるものにも属さぬ未知の力(「原始時代に潜在していた創世のエネルギー」)であり、その領域だろう。場所としてそこは(原子炉の内部同様に)人の関与できる臨界を超えるがゆえに危険であり、ゆえに何者によっても領有できず、つねに普遍にふれている。 
15:12 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
高橋達明氏の白井晟一論
 知道出版から出されている高橋達明著『オルペウス、ミュートスの誕生』の「新版あとがき」は全体が120頁とはいえ、3分の1をしめており、その中で白井晟一が論じられている。白井に関する書籍は殆ど総てが目を通されており、白井が設計した建築に彫りつけたラテン語を中心に論は展開されているが、懐霄館については次のように記されている。勝手にご紹介させていただく。

「唐突なようだが、佐世保市島瀬町の親和銀行本店電算事務センター(懐霄館1973−75)の双塔を見たとき、その清楚なたたずまいに、私の心は動いた。白井晟一が七〇の歳に完成させた、この建築の官能的な造形について、多くの人が露骨な語句で論じているし、写真はたいてい、さような思いこみにもとづいて撮影されているから、やはり影響されていたわけであろう。しかし、双塔は、懐霄館の名の通り、無限に高い空へと白く身を伸ばして、毅然として清楚であった。石の肌には、民家を思わせる素朴な土着性さえ感じられる。官能性を否定するつもりはない。辻邦生は「地上に在ることの然りへ向けられている声なのだ」と書いている(『懐霄館』1980)。これは至言である。ラテン語の homo(人間)と humusu(大地)はともに印欧祖語の dhghem(大地)を語源とする。人は地にある者なのである。しかし、地上の生は地を這いまわることで完結するものではない。同じ本のあとがきに、白井晟一は「物」にひそむアニマとペルソナ、という言葉を記している。人格 persona は精神の仮面であり、仮面は社会を前提とする。魂 anima は、心を含めた自余の一切のものとはあり方を異にする、一つの実在 entite' である。それは身体と運命を共にしつつも、身体をあくがれ出て、世界をかけめぐる。自己と自己に対立する自己、社会と世界、歴史と理念、個と普遍が反発し、ふれあい、拒絶し、またもとめあい、という風にペルソナとアニマが終わりなく交歓する想像空間。建築はそのような空間に一つの姿を見出すことによって、「物」になるのであろう。懐霄館の塔は想像的空間の中で、地上の官能になずんで、これをいつくしみ、また、無限に青い空へと、視覚を触覚に変えるような荒い削りの積み石の身をすっきり伸ばし、毅然として清楚である。」

「オルペウス、ミュートスの誕生−『農耕歌』第4巻 453−527行注釈」 
 高橋達明著 2011 知道出版


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
16:31 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
竹輪と高山寺

(佐世保の親和銀行本店の建築を10年以上にわたり、現場を運営し完成に導いた当時竹中工務店の所長、高尾四郎氏が11月23日亡くなられた。白井晟一の没後1年して編まれた「白井晟一研究后廚琶埆玄圓離ぅ鵐織咼紂爾謀えた高尾さんの話を、追悼の意を込めて一部ご紹介します。)

                                        

親和銀行においでになるということで、うちの支店長に連れられて板付の飛行場へお迎えに行ったんです。タラップを降りて来る人たちを見ながら、どの方でしょう、って尋ねたら支店長が髭をこう撫でるような格好をしましてね、「あの方だ」って言うでしょ。私は39歳でしたかね。「おれ、ああいうのは一寸苦手ですばい」って言いましたですよ。支店長とはそこで別れて、私が車で先生と御一緒して佐世保まで行ったわけです。その途中で急に伊万里の市場に寄ってくれないかっておっしゃる。「君、一寸、竹輪を食いたいんだ。」っていうわけです。あれっ、これは見かけとは一寸違うばい、と思って、竹輪屋の前で先生がこうして試食されるわけですよ。「これはいける」とか「これはまずい」とかって。それで金払わんですうすう出て来ちゃう。(笑い) ああこれは俺が払うんじゃね、と思って。それが第一印象で、そこで私の気持ちをもうぴしゃあっと掴まえたんでしょうね。速いもんじゃね、やっぱり。それから私はすっかりリラックスしてしまって。

東京へ帰られてからすぐ手紙をいただきました。いちばん最初に「孤峯頂上、草裡に坐す」と大きな字でぱっぱっと書かれてあって。今考えますとね、十年間おつきあいして、先生はそういう心境の方だったと思うんですね。自分だけで中にちゃんと秘めたるものがあって。それをこのまえからずうっと考えて、それが先生じゃなかったかなあって、つくずく思い出すんですよ。手紙を見て、ほおっ、字が上手いなくらいしか最初は思わなかったけれど、ずうっと建築をつくられて、あれだけ世間にも評判になって有名になられたけれど、こうあんまり表に出ていこうとされん。そいう何か控え目なところがひとつあったですものね。「冷や飯食わなきゃいい仕事はできんよ」ってよく言われていたけど、先生っていうのはそういう方だったですなあ。

現場をやるとき、栂尾の高山寺へね、毎月行かされたんですよ。「おれの仕事場へ来るよりあそこで一回座ってこい」って。でも行くには行ったっていうだけでね。七,八年たってからでしょうかね、ああ、そうやねえ、って思って自分なりに何か掴むものがね。先生に惚れてからの良さですね。あの高山寺の豪快なタッチの良さが自分なりに分かってきたような感じがしたんですね。口でパンパン言って教えられるんじゃなしに、そういういろいろな道具を使って私を指導されるのが非常にうまかったような気がするんです。一緒に(高山寺へ)行っても、何も説明されんですものね、「まあ、坐れや、お茶飲もうや」って。
         
         

結局ね、石の本質的な使い方っていうのがあの時代はまだなかなかなかったものですからね。先生の場合は、はやりのベニヤみたいな使い方やみみっちい石の使い方はお嫌いで、それだったらもう使わない方がいいっていう行き方でしたから。匙面つきの石の巾木があったんですが、あれを私は接着して作らせてくれって頼んだわけですよ。刳り出してやるとものすごくかかるものだからお願いしたことがあるんです。そうしたら先生も「いいだろう、君がそういうならやれ」って言って下さったわけです。一期二期三期と工事をやっていくうちに、本当に恥ずかしくなりましたものね。先生もどれだけつらかっただろうかなと思ってね。こいつ苦労しているから、それだけは認めてやろうということだったわけでしょうが、そこらあたりは、あの人は本質を見ている人で、私がそういうマガイなことをしたのが後になって恥ずかしくて。だからそれ以後は、逆にこっちの方がやりましょうっていうことも出てきたんですよ。
正面の駐車場の天井ですが、最初計画ではスレートボードみたいなものだったんです。しかしそのときは、ここはそんなボードを使うようなところじゃないから、アルミのコルゲートぐらいでいきましょう、ってこちらが言いましてね。そうしたら「おまえ、やってくれるのか、しかし金はどうするんだ」っておっしゃるから、金は」いりません、って行ったんです。設計の人がやりたいっていうことは、現場でも実際いえばやりたいことですからね。ただそれには経済がいろいろ付随しているけれども、しかしわずかなことでそれが生きるというならね。あの場合も経済的には相当負担はかかるけれども、先生もやっぱりやりたいと思われているだろうし。そうしたら先生が「よし、今日はおれが晩めし御馳走する」ってね。
本当にわれわれをそっちの方に引っ張っていく力は相当なものだったですね。普通だったら、図面がボードならそのままですからね。それよりもまだ安いものを探そうとするかもしれないですよ。それ以上のものをやらせる、私らをそういう気にさせる先生の力っていうのはね。しかし一期工事というのは非常に気合が入っとたですよ。実際われわれも死に物狂いでしたね。

全てを御存じなんですよね、われわれの打つ手は。だけども技術はお前たちの方がプロなんだから、というようなもっていき方をされるから、われわれはそれで一生懸命になってするわけで。最終的には何でも先生の方が御存じでね。なんのことはない、われわれの方は小学校の生徒みたいなもので、一生懸命やって先生に褒められようとするような、そういう気持ちにどんどんなっていったような感じでしたね。徹底的にそういう人の使い方っていうんですかね、それが先生は本当に、上手とか下手っていうようなものじゃないんですね。一緒にものをつくるという、何て言いますかね、設計者と施工者が一つになっていく、人の気持ちを掴むのがですね、ものをつくる先生の執念といいますかね、それがわれわれにびしびしと響きよったですね。

                            

ええ、まず板付の空港にお迎えしてね、福岡の支店にだいたい御案内するわけです。あそこへ来られると「おい、あんぱんのお土産」って。みんなも先生の顔見たらあんぱんが来るんじゃろうって待っとったですよ。またあのあんぱんが美味いですもんな。先生のご葬儀のとき私は朝買いに行きましたですよ。本当の味のするパンですものね。先生はすべてそういう本当の味のするものがお好きでね。例えば竹輪にしてもそのズバリの味がね。あんまり加工して飾ったようなものはお嫌いでしたよね。
佐世保へ着かれると、すぐホテルに入られてお休みになるわけです。それで夕方五時半ころにお目ざめになって、それから現場ですたい。葉巻くわえてね、だいたい現場はタバコくわえて入っちゃいけないですものね、私は灰皿横にもってついていくわけです。先生は「おう、お早う、お早う」って言ってね。なんぼお早うか、こっちはもう帰ろうかしらって言うとるのに。(笑い) あれは「お早う先生だ」って。現場はあの頃でも七時くらいまでやってましたかね。それから食事をしてゆっくりお話をうかがうわけです。
「しかし何がっていっても、食べ物の味が分からん奴は人情も分からんし、おそらく仕事は全然分からんだろう。食べ物の味が分からんようだったら人間もう駄目だぜ」って言われて、それで一生懸命食べることに専念したですよ。うどんを食おうといえば、日田の山奥まで走っていったり、竹輪を食おうといえば大川の三時間くらいかかるところまで行って探してみたり。小倉の山吹竹輪を先生お好きだったものですから、私が東京へ行く時は女房に走って買いに行かせて、空港まで持って来させて。お好きなものをただ、その、差し上げたいというだけじゃなくて、食べた時のあの顔を見たい、と思ってですな、それで買っていったですね。

それですたい、ねえ。先生と食べると何かこう、時間の経つのが分からないんですね。「おいきみあれ食おうか、これ食おうか」って言ってですな、それで結構食べているのに腹一杯にならんのですものね。あの顔見たら食欲が増しますんですね。(笑い) こちらへ来られると一番先に献立がパッと来るんです。「今晩は何を食おうか」って、「よしそれならすぐ手配せい」ってなものです。実際先生が言われたように、物の味っていうのがやっぱり始まりですね。大体先生の建築と先生の食べ物っていうのは似ていますよ。一般の人が先生の建築を凝っているとか何とかってなことを言うけれど、凝ってはないわけですもんな、あれは。凝ってるっていうのはおかしいと思う。凝っていない。じっくり見たらむしろ素朴ですものね。そこあたりの見方が、私なんかは先生とずっと一緒におったものだから、そういう見方になってくるんでしょうけど、私はあの凝ってるっていう話を聞くと頭にきおったですよ。何が凝ってるか、って。そんな媚びるようなやり方じゃないわけなんでね。そのものズバリでその味の出るという、結局やっぱり先生の建築はそれじゃなかったかとつくづく思います。(後略)

      
       

            『白井晟一研究』后 崔殞悗塙盪鎧」より
            写真:©村井修
 
         
23:06 | 白井晟一に関する資料 | comments(0) | trackbacks(0)
白井晟一に関する資料 1961 『建築』白井晟一特集
                          

 『建築』1961年12月号 白井晟一特集号より






建築雑誌で白井を特集したものは幾つかあるが、特に充実しているものは、『SD』1976.01.と『建築文化』1985・02.とこの『建築』1961.12.の3点であると思う。同年、受賞した高村光太郎賞を受けて編まれたものであったと思われる。ちょうど半世紀遡る。賞の対象ともなった善照寺に至るまでの建築作品と図面で構成されているが、栗田勇氏の最初の白井論「異端の作家白井晟一」が掲載されているのもこの特集号だった。(ちなみに栗田氏の2つめの白井論のタイトルは「正統の建築」『建築』1969.07だった。)他に吉中道夫、矢向敏郎共同執筆の「白井晟一の空間」が解説として寄稿されており、以下はその一節である。

語俗精神について

一見現代の建築の中にある暗黙の約束を無視し時にわれわれの意表を衝くような、さまざまな近代建築の要素の比重をくつがえす彼の作品は、まったく相反する賛否をもって迎えられた。日本の建築界の中では稀有なアウトサイダーであるとされた。(「近代建築」1961年4月号樫村直人)

日本の近代の特徴はその創造的な革新ではなく受動的凹型の形態だといわれ、19世紀西洋の物質文明の成果をできるだけ取り入れてその遅れを取り戻そうというのだから徹底した功利主義としてあらわれ、優秀な日本知性は西欧的規準による知的装備に馴致された。もし近代日本の建築の主流というものがあるとすれば、この徹底した機械主義の勝利と技術文明の誕生の所産である機能主義とその方法論の究明にあった。すなわちヨーロッパの自らを発展させるために過去の様式主義を破った内からの精神の労作というよりは、その追随による創作を宿命とした。

ヨーロッパの近代の発生にくらべて、日本の近代は明治政府の政策として工業立国という功利性を根幹として輸入された。この予め効用を見込んだ近代化は当然のことながら以後の文化一般の基本的な制約事項となり〈官〉がつねに〈民〉に先行する形で個の育つ余裕が著しくせばめられた状況を現出した。ヨーロッパの近代がそれ自体明白な目的的存在であるのに対して、日本のそれはあくまで工業立国として成長するための方法であり手段であった。したがって近代化が意味する人間の関係や意識構造は、なおざりにされ功利主義が支配的であった。

白井晟一がこれら日本の近代化の集団的流れの外にいて独り確固として自律的で自由な眼と思索の場を確立し〈西洋追随〉の時潮に警句を発するのは次の点においてである。すなわち人々がいう深く身についた西欧的知性を彼は啓蒙的教養的な態度でなく、自己の血肉と化して自らの眼で日本の近代化を本質的にしかと確かめた点にある。試験管的な日本列島の透明な液体中に外から落とされた赤い一滴の〈近代化〉と呼ばれる液体が混合し、溶融して生まれる変異の数々、その表面的変化と本質的変化を、中にいれば見さかいのつかない複雑な変異を見てとった極点こそ、彼の本質を解明するための鍵である。機械文明のうむ時間的な進歩とのへだたり、伝統とその歴史観、人間の精神的戒律、実在の掌握とその豊潤化、民衆的な創造への深い洞察、そして人間的なものの肯定を目ざしてそれらの全的統合としての空間の把握、それらがうまれる彼の知的風土は実にこの日本の近代化の二重の阻害に従属しなかった彼の精神・・・・・

 善照寺 



  

 

 

 

 秋ノ宮村役場





 四同舎(酒造会館)













 K氏の書屋・アトリエ







 松井田町役場







 嶋中山荘







 歓帰荘




この特集号を編纂したのは編集長の宮嶋圀夫氏であり、本誌の中では、「私の形を求めず、私の求める所を求めなさい。」と白井晟一であれば言うに違いないという言葉を記している。白井の没後白井晟一全集(同朋舎)を企画したのも宮嶋氏だったが、スタート直後夭折されてしまい、全集の完成を目にされることはなかったが、氏の遺した最後の編集作品だった。その際「白井晟一は人見て法説くという人だった」と語っていた言葉が印象的だった。白井晟一を語ることがしばしば語り手自身を標榜することになったことと呼応している。









           

                               

                
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