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「原爆堂」という問題 その意味と背景
以下は昨年7月3日に掲載したものの、故あって再録です。 
  
  
            「原爆堂」という問題・その意味と背景(京都工芸繊維大学
            白井晟一展シンポジウム草稿)
                                              

昨年の夏から開かれている「白井晟一展」ではどの会場でも「原爆堂」が期せずして中心的な展示として構成されました。4つの会場では主催者がそれぞれの主体的なコンセプトで展示を計画されており、コンセプトのすりあわせや合意といったものはなかったので、期せずしてと言ったのですが、それには理由があったと思います。一言で言えば、白井晟一という建築家を最も象徴的に表わしていると考えられたのが原爆堂であったからなのだと思いますが、もう少し丁寧に言えば、白井晟一という建築家の特質、他の建築家と比べて異なった独特な面を明らかに示しているのが「原爆堂」と考えられたからなのではなかったかと思います。

「原爆堂」計画そのものについては展覧会のカタログに解説を兼ねて私見を述べました。そこでの要旨は「原爆堂」という表現が、ヒロシマ・ナガサキの経験を大きな契機として、文明がもたらした核の時代を生きているという認識が不可欠になっているということ、それ故にこれまでにはないほどの叡智が求められているというメッセージを持ったものと考えられる点でした。今日ここで少しだけお話したいと思うのは、そのような「原爆堂」計画の背景になったと考えられることと、その背景との相関関係から見えてくる意味についてです。

1995年に広島で開催された「ヒロシマ以後」という、原爆や被爆をテーマにした展覧会がありましたが、そこで建築家の表現として展示されたのは「原爆堂」と、磯崎新さんの「電気的迷宮」という原爆で壊滅した広島の町を背景に描かれたシルクスクリーンによる絵画の2点だけでした。それは選ばれたというより、他に建築家の表現と言えるものが存在しなかったからでした。

丹下健三さんの設計した広島平和記念公園と資料館の建築がこの2つに加えられて解説されたり、評論されることがありますが、それは原爆や核をテーマにした表現という点では正確ではありません。広島平和記念公園は、国の政策をバックにして、平和を祈念するという計画であって、原爆や核をテーマにしたものではありません。丹下さん自身が原爆や核をテーマにしているというコメントは残していないようです。

磯崎さんの「電気的迷宮」は建築家による絵であって、建築のプロジェクトではありませんから、戦後この国では建築家によって原爆や核と正面から向き合ってなされた建築の表現は結局「原爆堂」だけしかなく、それも実現されなかった計画案に過ぎません。日本には戦後、被爆(-被曝)を悲しみ平和を謳いながら、そういう建築は1つも作られなかったわけです。

「新建築」誌の1955年4月号に「原爆堂計画」が発表されたとき、それを見た建築界では衝撃が走ったと言われています。しかしその後も建築界では原爆や核を問題とした表現が現れることはありませんでした。その前の年ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験があり、漁船の第5福竜丸とその乗組員が被爆し大きな問題になり、放射能の雨やマグロの放射能汚染が改めて市民の生活を直接脅かしていた時期でした。

今は建築が表現の問題として取り上げられたり意識されることが殆どないように見えますが、当時は建築が建築家による表現であるということが自明なこととして論じられていたように思います。にも拘わらず原爆や核が建築家の表現の問題とはならなかったのは何故だったのでしょう。僕はそれが戦後の日本の全体的な文化風土と密接な関係があると考えています。国は唯一の被爆国であるということを旗印にして日本の平和主義をアピールする一方では、アメリカの核戦略を支えるというダブルスタンダードを温存し、戦後67年間変わらず続いています。建築という領域は、文明論や文化論が活発に展開された領域でありながら、経済の発展や、技術に対する信奉、あるいはさまざまの矛盾を温存し続ける国の政策のかげで、それらにとって負の要素になるような問題は追求されず、あるいは退けられてきたように見えます。1940年代、体制翼賛に右ならいをした建築界と、その本質は戦後も変わらず連続しているように見えます。

イタリアの現代の思想家でジョルジョ・アガンベンという人がいますが、「ホモ・サケル」や「アウシュビッツの残り物」といった著作の中で、ナチの絶滅収容所の解析を執拗に展開しています。収容されたユダヤ人のなかに「回教徒」と呼ばれた人々がいて、かれらは人間的な属性を無残なまでに奪われ、人間的な思考や心理、感情ばかりでなく、感覚までわけが判らないところまで追いやられており、ナイフを刺されても痛みを感じないほどであったと記録されています。同朋のユダヤ人捕虜をガス室に送り届けたり、死体を処理する仕事をさせられていました。

恐ろしいのはそのような人格、人間性を剥奪され、失った人々、もう人間とは呼ぶことも出来なくなった人間が、実は人間というものの本質的な面を示しているのではないかという暗示にアガンベンの解析が至っている点です。ナチの絶滅収容所については、ドイツ人ばかりでなく被害者ですら早く忘れ去りたい、出来ることなら人間の歴史からなかったこととして消し去りたいと考えている問題です。しかしアガンベンはそれを例外化、特殊化しようとする歴史の中から改めて根こそぎ掬いあげ、さまざまな痛みを伴う本質をえぐり出そうとします。

かれの論稿の目的は、ナチを批判して例外化することではなく、第二次大戦後も起こっている似たような事実を挙げながら、彼自身も含めた人間や社会の依然として抱えている現実の問題であることを示すことです。その問題の本質が含んでいる矛盾を明確にして、それを乗り越えることが出来なければ、ナチやアウシュビッツの問題はいつまでも現前化し続けると考えているのです。

絶滅収容所の問題はアガンベンだけでなく、その問題を抜きにして「知」を再構築することは出来ないと考えている、そういう「知の伝統」とも言えるようなものがヨーロッパには連綿としてあるように見えます。それに対して日本はどうだったのか、どうであるのかということを考えざるを得ません。1967年の「デザイン批評」誌6月号で、原広司さんが白井晟一にインタビューした「人間・物質・建築」の中で白井が「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが遅かった」というよく知られた言葉を述べています。自分自身への反省という言葉の形をとっていますが、彼のレトリックの使い方を考慮すると、それは同時に日本の戦後の社会が、イデオロギーが現実の力を持ちうるようなところではなかった、という彼の見解を示すものであったと読むことが出来ます。

イデオロギーという概念は時代によっても変化することが多いので、そこで彼がどのような意味でつかっているのか必ずしも明解ではありませんが、その集団の合意をある程度形成することが出来ていて、集団の意志と行為を決定しうる力を持った思想というような意味に近いとすれば、まさに当時の近代合理主義なども建築界という集団の中ではイデオロギーといえるものだったと思えます。しかしその一方では、あたかも戦中のことがなかったかのように、戦後になるとあからさまに展開したイデオロギーの単純な置き換えとも言えるような、第一線の建築界の歴史を見ると、イデオロギーや思想と思われていたものは、その本質と骨格を最初から備えたものではなかったのではないかという疑問を持たざるを得なくなります。

いずれにしても、ヨーロッパの「知」が戦時下で起こったことを今もなお追い続けていることと比べると、その社会的、文化的風土の違いは歴然としているように見えるのです。

建築家が時代の先端を走りぬけたいと考え、近代科学工業の発展の中心的な担い手として、公共性を最も顕現している「筈」の国家的な事業に、建築家の使命と誇りを見出していこうとするのは、建築家というもののもしかしたら本質的な体質を示していると言えるのかもしれません。だから国が他国を領有しながら戦争を遂行するという方針に進めば、その体制翼賛に集い、敗戦して平和を掲げれば、道理や一貫性に捕らわれることなもく、今度はすんなりと平和を標榜するということも、むしろ自然の成り行きであったのかもしれません。もともと建築家とはそういう社会的存在であるのかもしれません。問題は、それが建築家自身にどのように自覚されてきたのかということです。そしてそれと同時に、建築家でない者、建築を受容する側の人々がそれをどう考え、理解するのかということです。

しかしこれは建築家に思想を求めないという但し書き付きの場合です。技術社会のエリートとして、常に新しい建築を作りだしていくのが建築家の何よりも責務であり、そこで思想として語られる言葉は、企業のイメージ戦略のようなものと等しいと捉える場合です。このようなことが、白井晟一が戦後の日本を、イデオロギーや思想が社会や文化を形成する力を持った場所ではないと考えるようになった1つの背景ではなかったかと考えられます。

アラブ世界では若者たちのインターネットが民主化運動の武器となり、国の体制を変える状況が生まれています。インターネットは個人が情報や意見の発信者という場所を手に入れ、マスメディアや国家が占有していた情報メディアに風穴を開ける力を持ってきています。組織やユニオンの篩を通さずに個人と個人が情報を交わす場でもあります。

インターネットの流行は、オーソライズされていたマスメディアからの情報に対する信頼の後退を背景に、それを相対化し、個人個人が情報の信頼性を判断しなければならなくなったことを示しています。また、発信者としては、匿名性という蓑は用意されていても、自分を見知らぬ世界に向けて露出し続ける意味をもちます。会社や組織などの社会との間の楯を失いつつある個人の、さらなる個別化を進める力がインターネットにはあるということです。

しかし一方ではそれと矛盾するようですが、ポピュリズムを助長し個人の独自性や主体性をさらに希薄なものにしていく可能性ももっていると思われます。インターネットがそういう個人を国や企業が取り込んでいくシステムでもあるからです。

福島の原発の事故が起こり、そうした状況はさらに先鋭化してきているように見えます。「核」という問題も、イデオロギーや主導的な思想に身を委ねるなどということが現実性を失い、個人が直接、裸で向かい合い判断しなければならなくなった状況はさらに進行していくものと思われます。

「原爆堂」計画案がどうして生まれたのか、そして「核」を正面に見据えた建築の表現がどうして他に生まれてこなかったのか。それには理由があった、そして依然として継続している、ということが多くの被曝犠牲者を生みつつあるこの原発事故で、今まさにそこで見えてくるものからも明らかになってきているように思われます。この国の社会の構造と「知」の問題が改めて問われ続けていますが、「原爆堂」について考えるということも、そのこととリンクしていると思います。その点では「原爆堂」はそれを生んだ背景と考え合わせることによって、戦後の日本の社会と文化に対する本質的な批判を含んだいることが見えてきます。そしてそれらの問題を相対化する契機としての意味を持っているのではないかと考えられるのです。
                                             2011.7.2. 白井磨


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