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「バルバロパ」

 

           2011年9月16日のブログから 

 

 

「白井晟一全集」の別巻で白井のエセーを集成したときもそうだったが、昨年「無窓」の復刊に際しても、「縄文的なるもの」の冒頭部分に出てくる「バルバロパ」という言葉が話題になり、編集者にもいろいろ調べてもらったが不明で、バルバロイの間違えではないかという意見もあった。しかしバルバロイでは文脈とも適合せず、また白井が遺していた改版にさいしての修正事項のリストにもなかったので元版どおりとした。

最近になって、たまたま読んだHeinz Demisch(ハインツ・デーミッシュ)の「Vision und Mythos in der modernen Kunst、1959」(邦題 現代芸術の原像 ヴィジョンと神話 佃堅輔訳 法政大学出版局、1978)で、「バルバロパ」について論じられているのを偶然発見した。

「バルバロパ」とは、1947年にベルリンでハインツ・トレェケスによって描かれた1枚の絵の呼称だった。同書にはピカソの『アヴィニョンの娘たち』、シャガールの『セーヌの橋』、マルクの『チロル』とならんで巻頭の口絵として掲載されており、『バルバロパ』が同書の主要なモチーフを支えているものだということがわかる。デーミッシュはその絵を次のように描いている。

「砂漠のような石だらけの丘陵の背後に、灰紫色の曇った空が貫きがたい壁のように高くそびえている。その前には、ひどくくいつくされた牛の一箇の頭蓋が空中に突き出ている。その崩壊してゆく、死の実体を垂直に立てて支えている力は、その大きさと同じほど不可解で未知なものである。頭蓋冠の褐色がかった紫のあいだの毒々しい緑色の線によって、腐敗してゆくプロセスが描かれているようにみえる。髑髏の下には、石のかたまりが、右側にむけられた雄牛に身体のように形づくられてそびえ立っている。髑髏は、石に凝固されること―そしてすでにまた崩壊してゆくこと―を待望する象徴であるかもしれない。植物のない砂漠、薄暗い光、腐敗と凝固とのしるしが結合して、希望のない死滅のイマジネーションとなっている。」

このようにデーミッシュによれば『バルバロパ』は「あらゆる生命力を奪われた場所のイマジネーション、死をになう頭蓋の場所のイマジネーション」である。頭蓋と化して荒野に晒された雄牛は、神話的見解によれば生殖力や生命力を象徴するものであるばかりでなく、ヨーロッパ世界の創成に関わる神話的形象でもあった。

絵画『バルバロパ』はその背景に「1845年以後のドイツの日常の中に存在していた暗い不安」を背景としてうまれたものであり、神話的な雄牛を頭蓋として描くことによって、ヨーロッパ世界の頽落を描いたものと見ることもできる、と指摘されている。

本書では「バルバロパ」の語源については直接には触れられていない。白井が「縄文的なるもの」を書いたのは1956年だから、この絵画を知っていたか、あるいは念頭においていたかどうかは微妙である。しかしエセーの中で白井が用いた「バルバロパ」が、絵画『バルバロパ』で象徴的に描かれたようなヨーロッパ、と書く代わりに用いられたものであることが、文脈に照らして推測出来るのである。

それにしても、「縄文的なるもの」の一年まえに発表された「原爆堂」に、トレェケスの『バルバロパ』とどこか繋がるアスペクトを指摘することが出来るとしたら、それは2つの表現の主体となったものが背負っていた暗さと希への強い思いに関わるものであろう。あるいはまた、日本の近代(主義)建築史の文脈では逼塞してしまう白井の思想と建築が収まるべき文脈を示唆することにもなるだろう。



 

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