Entry: main  << >>
白井晟一のエセー「ララミー牧場」
 白井晟一のエセー集「無窓」が晶文社から普及本の形で再刊された。改版に際して修正するようにと記された指示書が遺されており、再刊本はその指示に従っている。「無窓」はそれまでのエセーから彼自身が選び、推敲を重ねて編まれた。「無窓」では選ばれなかった文章は1988年白井の没後に編纂された「白井晟一全集」(同朋舎出版)の別冊の中で、初出誌のままの形で掲載された。 「ララミー牧場」は「全集」には再録されているが、これもとりわけ別冊だけを単独に入手することが難しい。白井にしては珍しく軽妙な文章で、「室内」誌の名物コーナー「百家争鳴」のために書かれたものである。「ララミー牧場」は1960年代にテレビで放映された西部劇である。この時代次から次に新しい西部劇がテレビに登場した。「ローハイド」「拳銃無宿」「反逆児」「ライフルマン」「シャイアン」「ブロンコ」西部劇ではないが「カメラマン・コバック」「コンバット」など自宅に居さえすれば、ビデオのない時代だから、来客を断ってでも欠かさず見る番組だった。そんなわけでご存じない方も多いと思う1961年の「ララミー牧場」をご紹介する。

 三猿の話があるが、つめたいビールのコップを乾してだいぶごきがんでもないと、ものを言うのは億劫だし、もし日々耳をふさぎ目を蔽ってくらせたら、この不精者の相貌、はるかに温容を持することができたであろう。
 どちらかといえば、僕なぞはこういった閉鎖の状態の中で充實する術をこころえている方だとおもう。このんで年期をいれてしまった。
 日頃、好情をよせてくれる知友がしきりに韜晦などと心配してくれるのだが、仕事はもちろん、どんな考えごと、観照も永年身についたこういう状態を解放すると鬱積した折角のポテンシャルが色あせてしまう心配がある。
 ところがこのごろこの懶草房にちょっと変異がおきた。ガンとして入門を禁じていたテレビジョンのアパラートを子供が親戚からもらってくるにおよんで、たしかはじめはそのまえをさけてあるいたはずだが、いつか世界の旅やベースボールに立ちどまり、とうとうこの頃では木曜、土曜の西部劇は欠かさず拝見することになってしまった。
 時間つぶしだからやめろと号令していた僕が、今ではいちばん熱心に眼と耳を解放してしまったというのが定説のようだ。
 そのうちもっとも快適なのはララミー牧場である。正義感をとってしまったら何ものこらぬという一国者の牧場経営者S青年と、その弟分で、若いのに酸いも甘いも嚙みわけた苦労人の協同者J青年を中心に、若い三十代の純粋な感受性が人間の貪欲や世の中の歪みに、まともに体当たりしてゆくのが小気味よく展開される。Sはささやかでも牧場の主であって誇高く清らかな男である。百万人と雖もおそれない。JはしばらくSのへだてない友情で協働者として落ちついているがもともと蒼氓の出身であり、情によわく涙もろいが、折にふれ狷介なのは一所不住の徒の悲しみと怒りをかくしているからだろう。                                                       
 Sは徹底した善意で疑うことを知らぬ。人倫背反の辛酸をなめたJは疑わざるを得ぬ。
 作者はこの全く異なった性格の二青年をそれぞれ比喩して、対比させながら、苛烈な世相に処するディアレクティクを説くのだが、かびのはえた理念をはさまない。溌溂としたからだにあふれた個性と感情をそのままぶつけさせて、どこまでも人間的な情義でつっこんでゆく。
 Jは実直の典型のようなSを石頭とやじりながら腹の中ではその純粋さに傾倒しているし、SはJのいささかやくざ気質のぬけないのを気にしてはいるが、心の中では肉親以上の弟である。
 しかもこの実直者と伝法者の互いに身命をおしまぬ厚い友情が冷酷ともみえる淡白さで描かれ、すこしも感情をのこさない。かえって萬斛の情熱をたたえるのだ。
 それにしても彼等の女との別れっぷりもよい。文章と映画の違いはあるが、酷薄な別離をかりてもなにかヒロイックな翳りのあるアルツイバーセフより、さらにドライで謙虚なさわやかさがある。
 この西部劇は、あるいはアメリカ社会ばかりでなく、いつの世にもすくない正義、稀な人間美をかいているといえるかもしれない。だが欲望、術策でもみあう人間集団の空間へからだごととびこんでこれを浄化し徹さぬと気がすまぬ、そういう正義感と人間愛の関係。それをこのように直截的確に再現して、みるものに疑わせない手腕にはつくりごとの技術以上の、いわば求道者のこころが生きていなければできない。
 これはたしかに、まっとうな人間生活の倫理を地でゆく可能性をもったアメリカ人の、よく現成公案の至境にも通う一つの創造だといってもよい。諦観は東洋人のパテントではなくなった。
 西武劇の背景はいつでも勤労の他に生活を確証するもののない草原と、絶望に乾いた砂漠にかこまれている。そこでは善も、ときには悪もさらりとした無償の行為となるすさまじさだが、それでいて悟りすましたにおいがするのではない。人間の秩序を過不足なくやってゆける彼等には神さえ介入するすきまもないごとくである。メイフラワーの先祖をもつ彼等も、ここではキリスト教をたいへんエキゾチックにあつかっている。
 さて、西部劇をつくる歴史、風土、人間。ことごとくここではできない相談だ。それでも日本でテレビジョンをみている人々の半分はララミー牧場のファンだときいた。
 僕も又、木曜の夜はカウボーイでなくとも、人間の智慧のいさぎよい生き方と、勤労者の體の中からでないとわいてこない透きとおった人間の質に、僕なりの身近な共感をつづけながら、そのときばかりはきっとお猿追放の嘆息などわすれながめいっているにちがいない。 
                                             (現代かなづかいに変更)
22:29 | 白井晟一に関する資料 | comments(1) | trackbacks(0)
スポンサーサイト
22:29 | - | - | -
Comment
はじめまして。
白井氏の未読エセーたのしく拝見しました。
ひさしぶりに、初めて目にする文章に接しましたが、いつ読んでも独特のユーモアが横溢しているし、内容的にも身辺雑記的なことが少し想像できて興味ぶかかったです。
Posted by: 坂本 |at: 2010/10/18 3:01 AM








Trackback

Calendar

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

Profile

Link

Entry

Comment

Trackback

Archives

Category

Search

Others

無料ブログ作成サービス JUGEM

Feed

Sponsored Links