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敗戦後日本と白井晟一の伝統論

 建築界の伝統論争の中で白井晟一の「縄文的なるもの」が掲載されたのは1956年の『新建築』7月号だったが、かれはその5年前に国学院の講演で「縄文的なるもの」の前段ともいえる伝統論を展開している。(「華道と建築 日本建築の伝統」)これは1945年の日本の敗戦、全面降伏による連合国、実質的には米軍の占領が終わる前の年だった。その講演の中で白井は伊勢神宮をとりあげて「西洋の古典建築のように合理の要求を満足させるために素樸な意志が変質されたものではない」ことを指摘し、それが「日本的創造精神の原理」を示しており、そのような原理にたいする「自覚と矜持を血肉の中にもっているならば、あたかも原理も伝統ももたぬ亡国の民のように、不安定な観念の動きをたちどころに模倣して不健全なエンスージアズムに沈潜するといったような不手際はおかさないはずであると考えるのであります。」と述べている。

 加藤典洋氏の『敗者の想像力』(集英社新書 2017)を読んでいて、この時期が漠然と戦後というだけでなく米軍の占領下にあって、加藤氏が日本ではなぜ描かれるべき「被占領の文学」が少ないのかと問うている、そのような時期であり、そのことを注視してこなかったことに気が付いた。白井の「不健全なエンスージアズム」とはまさにその時期の社会の心的な状況、欧米の支配と論理に屈服し、モダニズムのような文明の先進国の近代を「たちどころ」の模倣という形で取り入れてしまう傾向への批判であったことが理解できる。それから5年後の「縄文的なるもの」で伊豆韮山の江川邸の遺構に「友よ、そんな調子でなく、もっと強い調子で」と語らせるのも、敗戦と占領により「原理も伝統ももたぬ亡国の民」のように見えた戦後文化を鼓舞しエールをおくるものだったことが見えてくる。

 「縄文的なるもの」の前の号(『新建築』)では丹下健三が「現代建築の創造と日本建築の伝統」というタイトルで伝統を論じているが、かれはここでは伊勢神宮を「専制的な国家が生まれ出ようとする社会変革のモニュメント」であったとし「伊勢の鬱蒼とした森」はアニミズムの形象化だったと述べ、あるいは日本の伝統的な美意識は「現実認識における情意性や、自然認識における消極性といった弱い姿勢からきている」ことを強調し、おおむね日本的伝統に批判的な姿勢をとっている。また、戦時中の「大東亜建設記念営造計画」コンペの際の「近代の超克」的なコメントとは逆に、ヨーロッパ文明の「自然と対決し」「自然を克服しようとする」強い意志を評価した。この論考に表れている限りの丹下の伝統論と白井の伝統論は、同じ日本の戦争と敗戦、そして占領という同時代を生きながら対照的である。問題なのはそれが、日本が「対米従属のもとで主権もなく、いわばがんじがらめに縛られたままだという〈事実〉」(前掲『敗者の想像力』)を引きずる状況がつづく中で行われたものであったことである。

 

22:57 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
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