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『白井晟一全集』と宮嶋圀夫 1

 『白井晟一全集』(1988-89)を企画したのは宮島圀夫さん(1930-1987)である。当時私は白井晟一の遺した建築設計図を全て公開する主旨で図面集の刊行を企画していた。一方、宮嶋さんは『世界建築図集』や『現代建築/空間と方法』を企画編集して出版した京都の同朋舎出版との交流が続いており、『白井晟一全集』をその同朋舎から出さないかと相談を受けた。二つの企画がドッキングする形で図面を中心に建築作品及び装丁、エセー、対談とインタヴュー、それに宮嶋さん企画の「白井晟一の眼」を入れて構成することで同朋舎出版の担当者も加わり、全集の大まかな出版計画はすぐに決まった。戦後日本の建築家で「全集」というような形のものは初めての企てだったと思う。この企画を実現させたのは宮島さんの建築ジャーナリストとしての情熱と使命感だったが、単に建築作品の写真を集成したり識者と言われる人々の解説や評論を集めるといったものではなく、白井には建築のほかに評価のあった装丁やエセーあるいは書が遺されており(書は収容しなかったが)、何よりも建築設計図やパースの精細さや表現力がよく知られていたことが、単なる建築作品集ではない図面を中心とした全集という形の企画に繋がったように思われる。

 『建築雑誌』の1977年12月号の「建築ジャーナリズムと私」の中で宮嶋さんは次のように書き留めている。同じ建築の学校を卒業した友人の矢向敏郎に誘われて建築の雑誌『建築情報』の編集部に入った宮嶋は「毎日失敗の連続で社長には連日罵声をあびせられるし、閉口ばかりしていた。そのうえ、雑誌に掲載される作品は、口はばったい言い方だが、二流以下と私には思われた。――この時代、私の心にひびいてこない建築、とくに近代建築に嫌悪すら感じていた。――そのような時、だれが取材してきたのか、ある写真を見せられて、はっとした。そこには人間くさい美しさというか、何か光り輝くものを見出した。矢向君も、まして私には聞いたこともない建築家の作品であった。二人はこのような美しい作品を作る建築家の顔を見にゆこうではないかというので、のこのことその自邸を訪問したのであった。

 大きな切妻の、未完成らしい住い。その大きさ――スケールの大きさではない――に圧倒されながら、おずおずと玄関の扉をたたいた。「ヤー、オゥー」という声とともに、四十年配の偉丈夫らしい人物があらわれて、たいして来意も聞かず室内に通されてしまった。その人が白井晟一氏であったのだ。そして、しばしば白井邸を訪れることになり多くのことを教えられた。これが建築に目を向けるきっかけにもなり、その後の私を大きく支配したように思う。それは物の見方、事物に対する判断、といったものでもあったのだが、一番印象に残っているのは、その頃の白井氏がもっていた烈々たる気魄であった。」川添登氏は白井の建築作品を最初に取り上げたのは自分ではなくこの宮嶋氏だったと述べているが、しかしそれ以前に雑誌『建築世界』などに「歓帰荘」や「河村邸」などが掲載されていたのでそれも正確ではないことになる。いずれにしてもこのころすでに川添と白井の交流は始まっており、宮嶋は間もなく白井の紹介で川添が当時はまだ一人で切り盛りしていた『新建築』の編集部に移った。それから一年後に平良敬一さらに一年後には宮内嘉久が加わり、宮嶋によれば社内の「熱気は倍加していった。」然しそれから4年後の1957年には「村野藤吾設計の読売会館(そごうビル)の取り扱いをめぐって」社長と対立した編集部四人全員が解雇されてしまう。

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