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加藤典洋さんの訃報に接して「加藤典洋と白井晟一の原爆堂計画」

 

 

 昨年の暮れに体調を崩されていると知り気がかりだった加藤典洋さんが亡くなられた。(5月16日) 昨年7月に出版された『白井晟一の原爆堂 四つの対話』(晶文社)では私のインタヴューに応えて、短い準備期間しかなかったにもかかわらず、白井のエセーや建築の作品集、私の書いたものにまで詳細に目を通し、白井の設計した松涛美術館も訪れた上で臨んでくださった。初めてお会いしお話を伺ったわけだが、その後の校正でのやり取りも含めて、とりあげた問題にたいする自身の発言への、言いっぱなしに終わらせようとしない真摯で、深い意志の現われにつよく魅了された。

 インタヴューは2017年の暮れに晶文社の応接室で2時間余りかけて収録された。加藤さんに原爆堂計画というものを知っていただき、それをどのように捉え、どのように考えるか話を伺いたいと考え、一年余りかれの著作を読みあさっていたが、2017年の春になって出版された『敗者の想像力』(集英社新書)を読んで、原爆堂計画とのかなり具体的な接点をようやく見つけることが出来たように思い、出版社から依頼をしてもらうと同時に、どうして加藤さんにお願いしたいのか手紙を差し上げたところ、それから間もなく承諾の連絡をいただいた。 

 きっかけになった『敗者の想像力』の中では林達夫の「戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得なかった。」を引用したうえで、敗者の想像力を示す思想家として吉本隆明と鶴見俊輔を挙げ、かれらの深さをつくっていたものが「戦争に敗れ、人びとが反省し、勝者の新しい世界を学ぼうとしたときに、彼らはそれとは逆に、敗者であるとはどのようなことかをみきわめようとした」ところにあり、それは「彼ら二人だけのことではなく、そこに戦後の思想の一番深いありようが現れている。」と書かれていた。

 加藤氏は『敗戦後論』をはじめ多くの論考で「戦後的思考」というものを主題化して論じて来られたが、それはヤスパースの「ナチスからの解放が同時に敗者の屈辱」でもあった「敗戦経験の二重性」という、自らに突きつけた思考を糸口に展開されてきた。「敗者の想像力」はそこからさらに積極的な議論へと進められ、日本の戦後の文化の大勢が陥った「小ぶりの勝者の模倣者」となることを拒絶する意志を前提とするものとして提示されている。それは白井晟一の占領下での講演「日本建築の伝統」(1951)や、建築界の伝統論争のさなかに投じた「縄文的なるもの」(1956)の中で、日本の戦後の近代建築が独自の創造に身を削るよりも、欧米の近代に追従する模倣や剽窃に陥っていることを厳しく批判したことと通じるものだった。白井は建築家としての出自と日本の近代建築の潮流とは異なった作風の独特性が強調され、近代戦争の時代と戦後という経験を共有する一人の日本人としてのレベルで論じられることがあまりなかったように見える。近代の技術文明を象徴する核の問題と向き合ったた原爆堂計画やかれの初期の言説に目を向ければ、近代化と敗戦という日本人が負った問題に対する強い意識を地盤にもつ姿勢がはっきりと浮かび上がってくるエセーにくり返し現れた「日本的創造」への強い意志もその文脈の中でようやく明らかに見えてくることになるいずれにしても加藤氏の「戦後的思考」「敗者の想像力」は「原爆堂計画」というものが白井によってどうして企てられ、設計されたのかへの通路を開くものだった。加藤氏も「この人(―白井晟一)のさまざまなものの考え方が、自分の考え方、とくに1990年代の仕事、又3・11以降に試みてきたことと無関係ではない、という風に思いました。」と語り、それが原爆堂を主題とするインタヴューに応じられた理由でもあったのだろう。

 インタヴューでは原爆堂計画と建築家としての白井晟一にたいする様々の洞察と見解が展開されたが、その中でかれは吉本隆明が『アフリカ的段階について―史観の拡張』(春秋社)で歴史を外在史(意識の世界)と内在史(動物生の世界)に分け「外在史の未来の先までかんがえることがもし人間全体にとって意味を持つとしたらそれはその未来への呼びかけが、アフリカ的な段階という人間の内在史への遡及の試みと一対で行われるときでしかない」という視点を取り上げ日本の文化の始原に遡及して伝統を論じた「縄文的なるもの」と「めし」、そして「世界に向けての未来への祈念」を託すものとして計画された原爆堂とから、白井の「未来と始原の同時探求」という想念を捉え、このインタヴューの表題に選ばれた。

 さらに原爆堂計画が白井の「現実との対し方、そして考え方が象徴的に現れている」ものと捉えた上で、カントの二本立ての「理念」の考え方、  

一つは現実に実現されるべきものとして意味を持つ「構成的理念」、もう一つは現実には実現が難しいかもしれないが、目標としてそこにあることが「自分たちにとって、人類にとって必要」なものとして掲げられる「構成的理念」を取り上げ、「原爆堂計画」にこの二つの理念の内的緊張と葛藤を認められた。

 そしてもう一つ強い印象をのこした加藤氏の指摘は、丹下健三の「廣島計画」と白井の「原爆堂計画」を比較したうえで、白井を「建築というものはどのようなものでありうるか」「あるべきか、ではなくて、ありうるか」という、主義やイデオロギーではなく、自由な立場からの建築の可能性を求めた建築家として捉えた点である。加藤氏はこのインタヴューの最後を次のように締めくくっている。「僕は、今回、いろんな問いを自分の前に置かれましたあと100年かかろうと、200年かかろうと、日本の社会は、この建築計画(―原爆堂)を胸に留めて、いつかこの問いに答えるのが良いと思っています。」

 

 『白井晟一の原爆堂 四つの対話』が出版されて間もなく、加藤氏は信濃毎日で担当されていたコラム「思索のノート 水たまりの大きさで」に《「核と対峙する建物」の夢 東京五輪と原爆堂》を寄稿され、そこでは次のように記されている。「広島、長崎の人びとだけでなく日本人が。日本人だけでなく、アメリカを含む世界の人びとが。この建築の前に立つこと。そういう建物を、日本のどこかに、実現すること。小さな意思を起点に、日本の社会に、世界の人びとに、拠金を呼び掛けて。東京五輪に向け、新競技場の建設が進むなか、そんな夢を私は見ている。」そして翌月には「思索ノート 水たまりの大きさで」の挿絵を担当されていた宮森敬子さんの松本での展覧会で、原爆堂をテーマに宮森さんと対談された。

 

                                                                       2019年6月2日 白井磨

 

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