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「白井晟一の戦後と原爆堂構想」から第8章

 昨年6月の「原爆堂展」に合わせて出版された『白井晟一の原爆堂 四つの対話』(晶文社)は、実はこの本の企画の方が最初にあり、それに合わせて展覧会が企画されたものでした。(出版が遅れたために会期に間に合わなかったのですが)岡崎乾二郎、五十嵐太郎、鈴木了二、加藤典洋の四氏に「原爆堂」を主題に語っていただいたものですが。その冒頭に原爆堂を紹介、解説する意味で序説として「白井晟一の戦後と原爆堂構想」を書きました。以下はその最終章です。本では最後に登場する加藤氏はこの序説を読んだうえでインタヴューに臨まれたので、唯一本の中で対話的な性格を持つことになりました。

 

 

 私は先に「原爆」や「核」と.向き合う建築あるいはプロジェクトが、文明論、近代化論、文化論の盛んであった戦後の建築世界から「原爆堂計画」の他には生まれなかったことの不思議から、戦時下行われた建築家の座談会「大東亜共栄圏に於ける建築様式」と設計コンペ「大東亜建設記念営造計画」における言説を、おなじ時期の言論知識人の著名な座談会「世界史的立場と日本」「近代の超克」と並列して追い、それと同時に、白井の青年期戦争を挟む前後の時代に接点のあった人々の動向を探り、白井にとってそれがどのような時代としての経験であったのかを推しはかる資料として「白井晟一と原爆堂の背景」(『白井晟一の建築』検↓后,瓩襪まーる刊)をまとめました。それに対して本稿は「原爆堂計画」のあと集中的に書かれたエセーの「言葉」から「原爆堂」を捉える視点を示したものです。

 白井がハイデルベルク大学で師事したカール・ヤスパースが戦後まもなくおこなった講演「Die Schuldfrage」は『責罪論』『戦争の罪を問う』『われわれの戦争責任について』と邦題を変えて何度か出版されていますが、この本の解説で加藤典洋氏は次のように紹介しています。「(ヤスパースは)ナチスの治世下、ドイツにあっていわば『祖国喪失者』として毅然とした抵抗をつらぬく。ナチスの政権にユダヤ人の妻との離縁を勧告された時には、これを拒否し、大学を退いている。しかし、いったんドイツが国として敗北し、連合軍の占領統治下におかれ、ユダヤ人絶滅政策をはじめとするさまざまなナチスの罪業があきらかになると、自分をこの悪をなした『敗戦国民』の側におく。多くの同国人がドイツ人たることから遠ざかろうとすると、これに抗するように、そのことに近づく。自分たちのナチスからの解放が同時に敗者の屈辱でもあるとは、どういうことか。彼はこのような『敗戦経験の二重性』に、自分の戦後的思考の起点を、見届けようとするのである。」

 日本でも国民の戦いや運動によってではなく、敗戦というかたちではじめて皇国思想を軸とする全体主義国家からの解放がもたらされました。そして連合国、主としてアメリカの占領支配下で民主主義、近代主義が進められます。開放と屈辱という「敗線経験の二重性」の点ではドイツと等しかったわけですが、加藤氏は「はたしてわたし達の戦後はこのような二重の姿勢をもっただろうか」「敗戦を正面から受けとめた戦後的思考を、日本の戦後はもってきただろうか」と問いかけます。

 加藤氏はこの「戦後的思考」を二つのタイプに分け一つは「誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする『戦後民主主義思想』と呼び、これに対し「今自分たちに課せられた現実を基盤に、この第一の道に『抵抗』しつつ、自己形成する第二の流れ

を「戦後思想」と呼びます。これはとりあえず言論知識人を対象としたものですが、自覚的な敗戦経験の意識の深度を問わなければ、この二つのタイプは戦後の建築家の姿勢や動向にも認められるものです。前出の対談「原爆時代と建築」のなかで浅田孝は戦後十年を振りかえりながら「いま日本には大きな建築思潮の流れが2つあります。ひとつは過去の一種のそういう国際主義につながるモダニズムの立場、もうひとつはソシアリスト・リアリズムと申しますか。人間の生活の現実の中から建築というものが創造されなければならないという立場」だと指摘しています。「国際主義につながるモダニズム」とは「先進の西洋思想」を範とするものであり、後者は戦後の日本の「現実」を重視するという点では重なります。

 白井が欧米の近代建築、近代主義を規範とする意志を持たなかった点では前者に属する立場でなかったことは明らかですが、かといって後者の立場で捉えることも的からずれてしまうように見えます。エセー「豆腐」「めし」は生活の中にある「現実」を物と人のメカニズムと民族の歴史から捉え直そうとする作業でした。かれの「伝統」論は日本の伝統を単に欧米と比較するのではなく、それまでの日本の伝統の捉え方に対する疑義と批判の中から、伝統の原点を探り新たな文脈を見出そうとするものであったことはエセーにくり返し見たとおりです。「近代好き」な戦後建築に同調することがなかったのは、同時代としての近代は当然現実のものではあっても、時代を一定の概念で括ってそこから規範や様式を定位するといったイデオロギー指向は、袋の中身を変えただけの戦前、戦中の思考形態と質的に変わらないものであり、戦前から抱えられてきた近代の持つ矛盾や問題を宙吊りにしたままで「近代」的であることに正当性やアクチュアリティーを求める思考は、白井にとってはむしろ自由な創造活動を内側から阻むものとして克服すべき課題であったことは、1967年の原広司氏のインタヴューに対して「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかったんだが」という述懐に現れていますが、さらに1974年の作品集(中央公論社刊)では「原爆堂計画」について述べる中で「概念や典型の偏執から自由になることはそのころの自分にとって、難しい、大きい作業であったが」と回想していることからも窺えます。

 ヤスパースの「戦後的思考」の起点を加藤氏は次のフレーズに指摘しています。「恐ろしい破壊のなかに新たな状態が与えられているのは、われわれ自身の努力で達せられたのではないのだ。」このような敗戦の自覚を厳しく自らに問う「戦後的思考」から「原爆堂計画」を見ることによって、「原爆堂」に「創造的であること」が強く求められた理由がようやく判然としてきます。それは欧米の近代からの模倣や追従を切断し、一方で典型化された日本的伝統を原点から見直す意志をもって、「歴史と民衆のはかりつくせぬ昏い深み」と向き合う「破壊力」を「創造的活動」に求めることによってしか、自立した文化の構築に向かうことが出来ないという、いわば白井の「戦後的思考」を示すものであったと捉えられます。それは「原爆堂」のプロジェクトにおいて近代的技術文明を象徴する「核」と対峙する思考のなかでより鮮明になっていったものでした。

 「原爆堂計画」に添えられたコメントは「戦争のない永久平和を祈念する同じ願いの民衆のあまねき協働によって、またぜひそういう成り立ちからでなければできない建物であると思っている。」と結ばれています。「原爆堂」のクライアントが国家ではなく「平和を祈念するおなじ願いの民衆」であることが強調されました。ここにもかれの「戦後的思考」の性格が現れていると言えます。

                                                      白井磨

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