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白井晟一の青年時代ードイツ留学に至るまで(インタヴュー草稿から)

いつ頃からですか。まだ中学生ですね。親戚の小出次雄(後に西田幾多郎の弟子となり、柳宗悦の斡旋で仙石貢の養子になった)の影響もあったんでしょうが、哲学を勉強しようと思ってました。時々小出にカントを読んでもらったりしているうちに、子供ながらひそかに学校へゆこうと考えてたんですね。そんなことで志望上級学校のアンケートにベルリン大学哲学科と書いて、担任の教師をだいぶ不機嫌にしたのを思い出します。

父も家産もない身分ですから、ドイツは少々無理でしょうね。それで同級生四人といっしょに一高をうけました。仲のよかった友達には一緒に地方へゆこうとモウレツにすすめられたんですが、まあ曲りなりに自信もあったんでしょう。矢張一年前に四年から慶應医科へ入った友達なんかたいへん熱心で試験場の外で待っててくれたり。しかしそれがたいこ判をおしてくれた声援者達の期待を裏切って、アウト。もう進学はやめようと思いました。九月に震災で義兄の家族と京都へ移住しました。小出との交友は絶え絶えでつづいていましたが、その頃シュライエルマッハーやフリードリッヒ・シュレーゲルの名を覚えました。

その次の年義兄が友人の都鳥英喜さんからたいへんすすめられたようで、とにかく京都高等工芸学校へ入ることになりました。議事堂を設計された吉武さん(吉武泰水さんのお父さん)の話もききました。姉や義兄は僕になにか造形的な才能があるらしく思っていたようです。病母と弟のことを考えれば、哲学志望は結構なはずありません。とりあえず入れてもらったんですが、学校へはあまりゆきませんでした。ただ英語の先生が高坂正顕さんでホーソーンがテクストだったので欠席しなかったと思います。建築の方はさっぱりでした。あとは図書館でドイツ語、日仏会館でラテン語に一所懸命でした。講義は限度ぎりぎりまで代返で、そのかわり英語の試験の時に後援者数人に便宜をはかりました。

次の年は英語の先生は西谷啓治さんでしたが、小出と同じように西田先生の弟子だったし、テクストのポウを先生は一時間のほとんど、僕一人を対手にすまされたようでした。その頃から奈良に関心をもつようになりまして、図書館より奈良行きの方が多くなりました。仏像、伽藍とは大いに親密になりました。

小出とは細々でしたがずっとカントを続けていましたが、その頃から唯物論の本を見はじめたと思います。ちょうど西谷さんから戸坂さんが英語の教師になられ(高等工芸学校のの英語の教師は西田様から始まってずっとその弟子がかわるがわ就任される慣習になっていたようです)、小出の紹介で親しくしてもらい、学校以外でも時々お話をする機会がありました。小雨の中を若王子川の岸辺を戸坂さんの蛇の目傘にいれてもらって歩いたことなど思い出です。戸坂様がもうその頃唯物論研究会の主なメンバーだったことは知っていましたが、われわれの間では主にギリシャの自然哲学が話題だったようにおぼえています。

おぼつかない月日でしたが、(日本の学校で勉強する気持ちはとっくになかったわけですから)、だんだんドイツ留学への方針もきめられるようになりました。

深田(康算)先生からハイデルベルクのリッカートへの推薦状をもらって敦賀からウラジオストック、ウスリー線、シベリヤ鉄道にのってハイデルベルクへ向かったのは〇〇〇〇年の初夏でしたね。巴里で九月の試験の準備で郊外のプレッシー、ソバンソンのアパルトマンの家に五十日頼りました。

巴里へついてまもなく、旧知の柳亮さんにあい、何故コルビュジェのところへゆかないのかと熱心にきかれました。八月にストラスブールを経てハイデルベルクの下町に、北山淳友さんのお世話で宿を得て、ようやくドイツ遊学の緒に着いたわけです。

試験はきいていた筆記試験はなく、二十分位口頭の返答ですみました。十月になってバーデンの文部省からインマトリキュラチオーンの報せを貰いました。

目標だったリッカートは第一次大戦の際の故障から神経を痛められ、夫人の手を借りて教壇の上り下りをされていました。知らなかったんですがすでに正教授は退かれ16時から18時迄の特別講義はファウストだというわけで、深田先生からの書簡もとうとうお見せしませんでした。

 

白井晟一の原稿の肉筆草稿は白井晟一研究所に多数のこされているが、インタヴューに対する口語体の草稿はほとんど無い。これは毎日新聞で堀利彦氏のインタヴューと重複するところが多いので、その時のものかもしれない。ドイツに留学して以後のことも述べるつもりがあったのかもしれないが、この草稿は留学してリッケルトにあったところで終わっている。文中「唯物論研究会」とあるのは1932年に発足した「唯研」を指すのではなく、唯物論を研究する戸坂等の勉強会を指すのであろう。又小出次雄はドストイェフスキーの研究で後に著名になった学者である。深田康算は白井が渡独して間もない時期に亡くなったことを白井は知る機会があったのだろうか。

                                            

                                           2020.2.18.    白井晟一研究所

   

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