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デザインの否定(白井晟一における)
  ある問いに応えて:
 (白井晟一の建築作品の中で)一番関心があって好きでもあるのは「呉羽の舎」で、とくに「書屋」です。一人で身を置いたときに充実出来る空間のように思えるからで、しかも閉鎖的でなく、日常的な住居性からも自由で、自分が願っているような存在の仕方に場を与えてくれる空間と感じられるからだろうと思います。住居論から見ると、呉羽に限らずかれの住宅建築はエステティックな構成に主眼が置かれていて、日常的な居住性は副次的につくられているように見えるのですが、いろいろ考え合わせてみると、それはどちらが優先しているかというものではなく、白井の「生活」というものに対する考え方が反映していると見る方が当たっているのだろうと思います。「滴々居」と呼んだ自宅に便所を設けなかったために、かれに住宅を作らせると便所がないという噂がある時期広がっていたそうですが、それは下水管が細く水洗便所の敷設が許可されていなかったからで、後の自邸「虚白庵」には4か所もありました。住宅に便所は不可欠なわけですが、食べたり、団欒したり、寝たり、仕事をする場は、その臭いから守られていることが大事だったのだと思います。
 白井晟一はある講演を「華道と建築」という表題でエセーとして遺していますが、そこでは日本建築の、ヨーロッパ文化では真似することの出来ない「簡素」ということについて述べています。その具体的な一つの例として、ヨーロッパ留学からもどってその日に訪れたという大徳寺聚光院の閑隠席について触れています。利休の作とも言われる閑隠席は、優れた茶室遺構の中でも、意図的な意匠や装飾性を徹底して退けた、簡素に徹した建築といえると思いますが、白井はそこに日本建築の最も優れた伝統を見出しています。
 商品価値ということからデザインや建築までも評価される社会になって久しいわけですが、「簡素」はそのデザインの否定につながる価値観であると思います。ということはこの社会では追及されることも、求められることもなくなっているのかもしれません。官能的な欲望を刺激し、さまざまな快感を導き出すことのできる美が、デザインの商品価値を生むものだとしたら、しかしながら「簡素」にその力がないわけではない。美は個々の人間が主観で判断するものであり、メディアや社会が判断するものではありません。
 白井は別のエセー「めし」の中で「『美』をつくる術が人間の手にあると思い上がったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった。それからの人間はあけてもくれても『用』と『不用』の闘いを続けざるを得なくなったのである。」と述べています。デザインとはまさにこの思い上がりを象徴的に示す行為といえます。
 興味深いのは、建築もそのデザインということから自由になることが出来ないということです。
22:58 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(1) | trackbacks(0)
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22:58 | - | - | -
Comment
大変興味深く、非常に面白いです。現代の簡素の解釈がシンプル=コスト削減による大衆向け。が大流行しているため、もう一度手仕事の大切さを訴えるためにこれもまたわかりやすいデザインでしか対抗出来ないという方向でついつい陥ってしまう。利休が残した簡素の本質とは?
分かりにくい人間の本質を無に出来るもの?
白井晟一が伝えたい事と残した建築との間にあるものが何なのか?
疑問は尽きません。
Posted by: Kumai |at: 2010/11/29 1:52 AM








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