メモ 「近代の超克」批判の歴史

 米谷匡史氏の竹内好の「近代に超克」をめぐる論考(カッコ内)から 

 そこで唱えられた「近代の超克」と「世界史の哲学」は「〈一五年戦争〉期、とくに〈大東亜戦争〉期の日本の動向を、近代をのりこえ、アジアを西洋の植民地支配から解放する先駆けたるべきものとして整除する言説」だった。しかし問題はそのような言説、理念が帝国主義日本の侵略や植民地政策の現実と表裏をなしていることだった。戦後になって当然この矛盾する表裏が対外戦略、植民地支配に対する批判と「アジアを植民地支配から解放するという戦争目的の擁護論」となって対立反発が繰り返された。(「世界史の哲学の帰結 戦中から戦後へ 『現代思想』1995.01.)  

 

  磯前順一氏の「近代の超克」論から

 竹内好の「近代の超克」における日本の知識人に対する最大の批判点は「アジア太平洋戦争の敗北によって、日本はアジアの植民地を失ったわけだが、同時にみずからを西洋の一部として見なすことで、自分がアジアの一員であること、そして西洋との葛藤を抱えて存在してきたことをも忘れて」「アジアと西洋の間に存在したアポリアを忘却してしまったこと」だったと指摘する。言い換えれば「自分たちと西洋の近代主義者を同一視することで、自らの身体や感情をどのように扱ったらよいかという問題を等閑視」してしまったというものだった。(『閾の思考』法政大学出版局 2013.08.)

 

 

17:47 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
メモ ヘテロトピア=異他なる空間

  新たな白井晟一論へのツールとしての「ヘテロトピア」

 

「言語空間であれ現実の空間であれ、広く自明のものとされている共通の修辞的基盤や統語的基盤、あるいは空間を成立させる整序性に、ヘテロトピアは亀裂を入れ、その範例的な序列を突き崩し、統辞法をもつれさせ、混乱させる機能をもっている点だ。

 その意味でヘテロトピアとは、「社会の制度そのものの中で構成された反=場所」ということができる。みずからが属する文化の内側に見いだしうる現実の場所を、同時に表象し=異議を申し立て=反転する、そのような空間である。それは社会制度や文化の内部にありながら外部性を包含し、他のあらゆる場所から絶対的に異他なる空間として生成されるのだ。

 さしあたりヘテロトピアを以上のように定義するとき、「異他なる空間」(ヘテロトピア)に向かおうとする力学は、テクノクラシーによって構成された言語・社会・空間システムに不安を与えるものにならざるをえない。(後略)」  

 

 

  立教大学公開シンポジウム「〈異他なる空間(ヘテロトピア)〉へ」における林みどり氏のシンポジウム趣旨からの抜粋

 

 

 

16:59 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 后仝鋲箸米刺検 


               后仝鋲箸米刺

 M.アレクサンダーは「塔の思想」の中で、ギリシャ建築がB.C.4世紀に及んでも原則的に塔を持たなかったことを指摘して、ギリシャ芸術は「塔を建設しようという一切の内的衝動を欠いている」と述べた。それは人間をすべての尺度とする「法則と制限の芸術」であり、人間が「自己自身から出て、それを乗り越え、そうすることによって無限の空間と結合しようとする」塔建築とは互いに排除しあうものだと考えた。

白井晟一は既に述べたように、ギリシャ、ローマの文化や美術への関心がベースにあった。善照寺は仏教伽藍だがギリシャ神殿に通じる造形的性格を示している。近代においては塔には、古典的な調和やバランスを重視する古典的な美意識を乗り越えようとするバロック的な美意識や精神構造に通じるものがある。塔は白井においてもバロック的な境域の中で当場してきたものではなかったろうか。

ノアビルは三つの造形で構成された複合体だが、全体として示しているのは、結界にそそりたつ塔のイメージである。1950年代の浅草善照寺のベースになっている古典的な美意識とは明らかに異質であり、その変化はすでに述べたように、日本の社会と文化に対する認識の変移と関わったものでもあったと考えられる。

アレクサンダーは又、塔というものを次のように言う。

「塔は孤独な道標(みちしるべ)のように、人に自信と慰安を与える仲介者のように、雄々しく誇らかに聳え立つ。それは、泡立つ大洋の中の帆柱のように、全てを呑み込んでしまう形の無い空間の脅威に対して、確実な定点を示すのである。」

白井がノアビルを都市の道標と言ったとき、かれにはこれと通じるイメージがあったのではなかったろうか。

 

最近になって原爆堂計画を進めていた1954年当時、白井には原爆堂のもう一つのイメージのあったことを五十嵐太郎氏の『日本建築入門』で知った。それは川添登氏が伝えていたもので、白井の机には直方体の上に円筒の載った別案があったのだという。円と四角の合体という点では同じだが、基壇に円筒を載せるというフォルムの構成は、親和銀行の挟の建築と何よりもノアビルに通じている。つまり注目すべきはノアビルの造形の原案はすでにこの時あったということであり、それが「原爆堂」という核を主題とした建築の意想から生まれていたものだったことである。「もう一つの原爆堂」は1954年には円と四角の幾何学的な複合であったものが、斫りレンガで積み上げられたヨーロッパ中世の城巖を想起させる基壇と、円筒ではなく楕円の金属製の塔へと展開しノアビルになったのだった。

 

「原爆堂」は矛盾対立を止揚しようとするエネルギーをはらんで、大きくせりだしたキャンティレバーの強いテンションを建築化したものだったが、1974年の「もう一つの原爆堂」は弁証法的止揚に希望を求めるのではなく、矛盾対立ををむしろエネルギーとして内包する意思と力が託されているように見えるのである。

 

 

 

                      2017年8月改稿  白井磨

17:12 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 検〔圭發療

                      検〔圭發療

 楕円の思考は単純な二元論とも相対主義とも異なる。中心が二つということは言葉の上でそれ自体すでに矛盾であり、最初から対立が含まれている。二つの中心(焦点)の近接離反に応じて、楕円の形は痩せたり太ったりするが楕円であることは保たれ他の形へと移行することはない。二つの中心の関係は解釈学的循環の中で捉え直された主観と客観、個と普遍などの関係に近いかもしれない。観念論における主観と客観や個と普遍の対立関係は、解釈学的循環のなかでは単純な対立を失い、運動する一つの思考世界を成立させる。


楕円の思考は多元主義と対立はしないが、二つの中心の相関関係から生まれる運動が欠かせない。この国におけるイデオロギーのアクチュアリティーや有効性に見切りをつけた白井が向かったのは、親和銀行本店、特に第三期の懐霄館とノアビルという建築表現に示された世界だった。それらの建築と彼の思想を読み解く鍵は、バロックと楕円の思想にあると思われる。

「人間というものは矛盾の塊なんだ」という言葉を何度白井から聞いただろう。白井晟一という建築家は常に言葉の前に人間という言葉をつけて考えていたように思う。人間の文明、人間の科学、人間の経済、人間の社会、そして人間の建築など。近代主義的合理主義、科学主義、技術主義、生産主義等の流れの中で、いつの間にか「人間の」という主体が抜け落ち、それぞれが自立したものとしてシステムを形成した。そういう世界を目の当たりにしながらも、人間の本質を矛盾に見た白井が、建築の論理的方法論や大系を構築することに関心を持つことがなかったのは当然だった。建築家の発想、施工会社の営利主義、建築の工業生産化、クライアントの所有エゴイズム、時代遅れの建築法制、一般社会の建築に対する無理解、無関心、そういったものが合わさって現実の建築が成立しているのを見れば、白井にとって、建築そのものが矛盾の塊であったに違いない。ノアビルは彼の建築作品の中でもとりわけ多くの矛盾を抱えたケースだったように思う。

原爆堂は対照的な二つの形態を一つの造形に止揚しようとするものだったが、ノアビルは楕円のシャフトとレンガの量塊的な基壇に加えて、シャフトに寄り添うエレベーター棟の三つの要素から成る。そして三つのブロックはそれぞれ独立した、できるだけ異質なものでなければならなかった。エレベーター棟は最初打ち放しのコンクリートで考えられていたが、構造上の様々な配慮から、コンクリートのように見えるアルミのダイカストが用いられた。

親和銀行佐世保本店の建築は三つの建築の複合体であり、それも最初に全体の計画や構想があったわけではなく、継ぎ足しの上にまた継ぎ足すという経緯を辿った。白井が親和銀行の建築について語る時に、移り替わる時代と支配者の文化によって改造に改造の加えられたハギア・ソフィアになぞらえたのはそのためである。そして何よりも苦慮熟考しなければならなかったのは、原爆堂を彷彿させる石のマッシブな鬼の建築と、内側に3階吹き抜けのバンキングホールを持つブロンズのパネルで構成された挟の建築を如何に繋ぐかだった、と私に話したことがある。そうして出来たのが二つの建築とは異質な全面ガラス張りの小さな部屋だった。

ノアビルの場合は懐霄館とは異なり、設計者自身が三つの異質なものの複合という三位一体の意想でまとめあげたものだったから、そこにエネルギーの蓄積を計算することが出来た。斜線規制をかいくぐるように、敷地一杯の基壇の上に楕円のシャフトを乗せた建築は、さらに打ち放しコンクリート様の無機質なもう一つのシャフトを寄り添わせることによって完成した。その無機質なシャフトはこの建築の各層を繋ぐ器官としての機能を担うものだった。

17:08 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 掘(弧析世箸靴討侶築

             掘(弧析世箸靴討侶築                       

白井晟一が設計した中で「ノアビル」ほど異例ずくめの建築はなかったのではないだろうか。クライアントは竹中工務店に発注したものだったが、設計は誰か建築家にという条件をつけた。竹中工務店ではどのような討議の結果であったのか解らないが、当時白井の設計する親和銀行本店も竹中工務店が施工していたということもあったのであろう、担当していた設計部長のKさんと副部長のAさんが白井を訪れる。Aさんから聞いた話だが、この時初対面だったAさんが「竹中工務店のAです」と自己紹介すると、白井は「順序が違うだろう。先ず自分の名前を言ってそれから所属する会社を言うものだ」と叱責された、という。

 

クライアントから直接ではなく、ゼネコンからの依頼というのも異例なことだった。さらには基本設計が終わり、暫くした段階で今度は白井を外して後は設計も竹中で進めてほしいとクライアントが要請する。それに対して白井は基本設計だけを売り渡すことはない。建築をつくる同じ仲間として君たちももそのような理不尽に屈するべきではない。大変残念だが共にこの仕事はなかったことにしよう、とKさんとAさんに話したという。

当時ベルリンに留学していた僕のところを訪れ2週間ほど滞在したのは、そのような経緯で中断していた時期だった。かれのこの時ほど消沈している姿は見たことがなかったほどで、ノアビルにいかに執着していたのかが推測できた。かれが帰国して間もなく、KさんとAさんの努力で再開されたのだが、内部の設計は白井の指導のもとで竹中工務店が進めた。そうしたことがあって、完成したときは、構想・白井晟一、制作・竹中工務店というこれも異例な形で発表された。かれは常々、日本の「現代」建築は外側ばかり頑張って、中のお粗末なものが多いと批判していたくらいで、外観と内部は一体のものとしてとり組むのが常だったから、そのような信条から外れてまでノアビルの建設にかかわり続けた執着は白井の建築家としての活動の中では特異なケースだった。

このような経緯を振り返ると、ノアビルの場合、その形態、外観への思い入れの強さが特別であったように思われる。それは先ごろ壊された親和銀行三原橋支店の建築と並ぶかれの数少ない都市の建築の一つだが、白井の都市の建築に対する考え方や想念を示す貴重な遺構である。

ノアビルは白井の文明論が直接示されたものとしても貴重である。そのことによっても「原爆堂」と通底しているように思う。原爆堂は核を手にした文明に対する批判と認識を前提としている。ノアビルは都市全体へのコンセプトの欠落した雑獏さと均質性によって支配された東京という都市を対照化する建築として、その只中で都市の道標となることを志向した建築と言える。岡崎乾二郎氏は原爆堂をSF的と評したが、ノアビルはさらにSF的と言えるかもしれない。ノアビルの視線が向かうのは、東京という都市を越えて、茫漠とした宇宙の景色ではないのかという空想を誘う建築のようにも見える。

その建築が二つの中心から成る楕円という形態をとることになったのは、弁証法的な展開に白井がアクチュアリティーを認めることが出来なくなった境域を示すものではなかっただろうか。

16:56 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 供 ̄澆了彖曚搬扮澆了彖

              供 ̄澆了彖曚搬扮澆了彖

 円は一つの中心で成り立つ調和と統一の象徴のような図形である。その中心が二つに分裂して、二つの焦点から成り立っているのが楕円というわけだが、楕円の二つの焦点が限りなく接近してついに一つになると円が生まれるという言い方も出来る。水の波紋は同心円で広がるが、惑星の軌道は楕円を描く。どちらが先か、あるいはより本質的かという議論には意味がないだろう。

白井晟一の原爆堂計画は、円の思想構造を持っていたのではないかと思われる。世界大戦があり、広島、長崎に原爆が投下され、第五福竜丸の被ばくという厳しい現実があってなお、原爆堂の造形は調和と統一の理想主義を捨てていないように見える。しかしそれから10年余りして、原広司氏のインタビューに応えた「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけるのが遅かった」という言葉は、日本という国の文化がイデオロギーではどうにもならないという彼の自省と認識を示したものと捉えられる。初期の白井の言説にもしばしば現れる「弁証法」とは、相反するものを一つの調和に導こうとするある種のイデオロギーにとっては有効なアイテムと考えられていたものである。原爆堂の造形の際立った性格の一つと思われる、対照的な形態の弁証法的止揚へのこだわりは、原爆堂に至るまでの白井の思考を捉える上での手掛かりになる。

白井はニヒリズムやアナーキズムとは無縁であった。強いて言えば人間を信ずることを捨てることのないイデアリストだったと私は考えている。2010〜2011年の「白井晟一展」を通じてもよく知られるようになった、前川國男氏の白井への追悼文、「この国の闇を見据える同行者は居なくなった」という慨嘆は、戦後の日本の近代主義建築のリードオフマンであった前川が、近代主義を相対化していた白井と思想や歴史的役割を超えてともに見ていた闇を示している。それは白井が果たして闇と呼ぶものであったのかどうかは分からないのだが。

望むべき世界を円と見るか、楕円と見るかで思想は異なっ針路をとることになる。イデオロギーが日本の社会や文化の形成に力とはならないという認識が向かったのは楕円の思考とも呼べるものではなかったか。

16:47 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
再録 「原爆堂」から「ノアビル」へ 機 宙空に浮かぶ楕円の塔

    2011年の夏に書いたブログ「原爆堂からノアビルへ」を改稿しました。章立ては以下の通りです。

          

          1 宙空に浮かぶ楕円の塔

          2 円の思想と楕円の思想

          3 文明論としての建築

          4 矛盾の塔

          5 孤独な道標

 

                                         機|莇に浮ぶ楕円の塔 

キューブリックの、宇宙に突然現れて浮かぶ漆黒の厚い板と「原爆堂」が、どこか似ているとツイッターに書いたことがある。原爆堂について考えていたら「2001年宇宙の旅」の黒い壁を思い出したのだが、実はこの時「ノアビル」にもっと近いイメージを感じていた。

ノアビルを白井は「都市の道標」という言葉で語っていたが、その立地がいかにも道祖神にふさわしい結界を示す地勢であることからも、道祖神の性的な造形とダブらせて論じられることも少なくなかった。道祖神から離れても、この建築は様々なアレゴリー解釈を呼び寄せる不思議な建築である。しかしノアビルの魅力はそういうことよりも、東京という都市と調和してその一部として都市を形成する建築を志向するものではなく、むしろ逆にその都市を対照化する「目」か「鏡」のような存在として都市を形成するあり方を示しているところにあるように思われる。

ノアビルの設計に際して、金属製の楕円のシャフトとそれを基壇に載せる構成は最初から決まっていたが、基壇の造形はなかなか決定に至らなかった。彼が創出しようとする建築のモチーフの中心は黒い楕円のシャフト、漆黒の塔だったと思われるが、そのシャフトを受ける基壇に、白井はシャフトとは極端に異質なロマネスクの城巖風の古拙な造形を選んだ。その結果ノアビルは、割り肌のレンガの量塊から突き出して聳え立つ漆黒の楕円シャフトという造形へ展開することになった。


かれは若い時は、ギリシャ・ローマの古典世界が、建築や美術においても、哲学や文学においてもなによりも関心の対象だったと話している。そして、ドイツ留学時代にゴシック建築が彼にとっての建築のいわば原質のようなものになったとも語っている。いずれにしても建築や美術への関心や美意識の変遷が語られる時、ヨーロッパの文化や美の様式を引き合いに出して語ることが多かった。

親和銀行佐世保本店の一期の建築で、原爆堂の造形としての意想を多少なりとも実現した頃からではなかったかと思うが、上記のような話の流れの中では、バロック的な造形や美について語るようになり、それと並行して密教美術に対する関心が語られるようになった。

それまで白井の設計は木造の住宅群や善照寺など、端正な姿と構成が特徴的だった。加齢とともに枯れていく日本人的なタイプと違って、白井は老成するに従ってむしろ人間のドロドロした、官能や業といった人間の本質を正面から見据えるようになったように見える。バロックへの関心もそのような、建築というより、人間的な自己への省察と関わっていたと言える。楕円が登場するのはそのようなバロック的な世界においてであった。

最初、部分やディテールに表れていた楕円はやがて、平面が楕円で、建築全体を楕円によって性格づける「ノアビル」の建築となって結晶する。これはいわば円と四角の弁証法的止揚ともいえる「原爆堂」からの展開であり大きな転換を示すものではなかったろうか。

16:36 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
「今」の原爆堂計画

 「原爆堂計画」がヒロシマ・ナガサキをモチーフとしていたことは「原爆の図」の美術館として提案されていたことから明らかですが、「悲劇のメモリィを定着する譬喩としてではなく」と白井のコメントにもあるように、「原爆堂」のモチーフが原爆ドームのもつ意味とは違ったところにあったことがわかります。岡崎乾二郎氏は原爆堂計画の配置図を示して、それが「核分裂の図式をそのまま模しているとしか見えない」と指摘し、さらに「水面下から立ち上がるシリンダー状の本堂は形態のみならず構造において核施設、原子炉こそ酷似しているだろう」と解析しています。原爆堂が設計されたのは、止まらない核実験のなかで第五福竜丸の被爆事件があり、海産物の放射能汚染が広がり、一方でアメリカ大統領の国連での原子力の平和利用、原子力発電所推進の宣言が行われ、それに従う形で日本でも原発導入が決定された時期でした。核兵器廃絶を求めるラッセル・アインシュタイン宣言が世界に発信されたのは原爆堂計画発表の4か月あとでした。

 白井が原発に対してどのような見解をもっていたかは、直接的な言葉としては残されていません。しかし白井が青年時に兄事し交流のあった戸坂潤は物理学出身の哲学者であり、またかれの哲学は科学の領域での大きな変革に触発されたものだったことからも、白井がその影響を受けていただろうことと岡崎氏の指摘と合わせて、原爆堂のの設計に原子物理学的な知見が影響していたことを読み取ることは難しくありません。戦争と原爆に対するメッセージをもった「原爆堂プロジェクト」が核そのものに対する視線をもち、核と文明、核と人間の問題を視野に入れたものであったと言えるでしょう。

 2010年から11年にかけて開催された「白井晟一展」展覧会評には「原爆堂計画」を核の文明に対する警鐘と捉えたものが幾つかありました。白井は「原爆の図」の美術館としては実現できない状況が明らかになると原爆堂のパンフレットを作り海外の建築界やかれが留学時に師事した哲学者たちに送付しようとしましたが実行されませんでした。この時点でかれが原爆堂の用途を美術館から離れてfreeにしていたことが分かります。その後建築の世界で取り上げられることはあっても、白井の代表的な作品の一つとして、プレゼンテーションされたパースや図面の表現が注目されるか、デザインや空間構成がアレゴリカルに論じられるかで、核の文明に対峙する主題や建築家のアイデンティティーを問うメッセージが議論の対象となることは彼の生時ついになかったように見えます。

 「原爆堂計画」に核の文明に対する警鐘を見る見解がコメントされたのは、「白井晟一展」の会期中に起こった福島の原発事故の衝撃からであったことは明らかです。ある新聞のコラムには「残された設計図は、核兵器廃絶をもとめながらも核にほんろうされた戦後の日々を見つめてきた。今、再び向き合う。」というものがありました。科学技術への信仰と経済繁栄を第一に考える風潮を背景に、核の平和利用、先進的なエネルギー政策として進められてきた原子力発電の政治的、経済的非理性をフクシマが暴き出すことになりました。原爆や核実験の脅威にさらされ続けていた状況の中で計画された原爆堂に込められたメッセージが、核の文明に対する警鐘ととらえられたのは、「核にほんろうされてきた戦後の日々」が継続し続けているからに違いありません。

 

 

 

 

03:08 | 白井磨パーソナルブログ 「柊心居にて」 | comments(0) | trackbacks(0)
二つの原爆堂

 

                二つの原爆堂

 

 白井晟一が原爆堂を計画していた時、机のよこにはもう一つの案が置かれていた、という川添登さんの証言を五十嵐太郎さんの本で知った。それはキュービックに円筒の載った形をしていた。1955年発表の原爆堂計画はその姿や気配を伝えるパースでよく知られているように、強いキャンティレバーの建築である。地表から独立して水面から突き出した円筒が高さを4分の1ほどに圧縮されたキューブを刺し通す。そしてこの造形を印象づけているのは何といっても円筒から宙空に張り出したキャンティレバーである。(岡崎乾二郎氏は白井のキャンティレバーがメタボリズムのそれに先行するものだったことを指摘している。)それに対して原爆堂のもう一つの造形的なモチーフは、不安定の安定を示すキャンティレバーと対照的に、大地にしっかり根を広げるような基壇が円筒を支える造形だった。幾何学的な当時の基壇は不整形で中世的なレンガ造に変り、円筒は楕円形の塔にかわった。ノアビルである。1955年のもう一つの原爆堂と1974年のノアビルの間に白井と時代の変遷と変わらないものを見とめることも出来るだろう。東京を見下ろす台地に立つノアビルに白井が秘かに託していたものが浮かび上がってくる。

 このように見てくれば、親和銀行本店の建築の意想も明らかになってくる。一期が原爆堂をモチーフにした造形を示していることはよく知られている。そして二期の建築は石の基壇に前面が楕円のカーブを描く金属製の筒が載る造形である。つまり白井が原爆堂の計画時にもっていた二つの造形的モチーフがここで邂逅していると見ることが出来る。そして三期の「懐霄館」はこの二つの造形とは全く異質な造形を示す塔の建築としてつくられた。しかし塔という建築の形は指標や統合をモチーフとするものであり、それは白井が二つの原爆堂に込めた意想と深く結びついている。                            

                                           2017.6.30.白井磨 

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再録 岡崎乾二郎「芸術の条件・白井晟一という問題群」を読む 

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ここでは原子力発電の本質的な問題が指摘され論じられている。 

1.1954年は第五福竜丸事件、つまりアメリカのビキニ環礁での水爆実験による被爆事件が起こる一方で、原子力発電の日本への導入計画が本格化している。そして白井が原爆堂計画の設計に没頭していた年でもある。

2.「前年53年の暮れ、12月8日にアイゼンハワー大統領がおこなった、アメリカ原子力政策の平和利用への転換を告知する演説「アトムズ・フォー・ピース」に素早く反応し、『読売新聞』紙上で「ついに太陽をとらえた―原子力は人々を幸福にするか」という連載が始まったのは54年元旦からである。」

書籍化されたこの連載の冒頭で「校閲者の中村誠一郎は『原子力は太陽の中で熱が生まれているのと同じ理によるものですから、小型の太陽がすでに地球上で完成しているといってもよいわけです』といささか上機嫌(と感じるくらい)に記している。」

「この連載の特筆すべき点は(当然、原爆が与えうる、そして与えた凄惨な惨禍を記述しつつも)、戦前からの原子力開発、とくに戦時下での日本の原爆開発の歩みをも詳細に記し、当時の科学者たちが抱いていた、原子核エネルギーの持つ可能性への理論的高揚、技術的期待を率直に伝えていることにある。」

3.白井晟一が兄事していたと伝えられている戸坂潤の「科学論」の一部が紹介され、「形而上学的な因果必然性の観念は、ハイゼンベルクの量子力学の原理に属する不確定性原則によって、成り立たないことが証明されるに至った」等の記述を受けて、

「ハイゼンベルクの発見した不確定性原理(電荷微粒子の位置と運動量は同時には観測できない)によって、初めて自由は、物質に(言い換えれば精神を物質に)基礎づけられることが証明された、ということになる。」

つまり、「ニュートン以来の絶対空間、絶対時間という普遍[不変でもある]と思われた枠組みが可塑的、可変的なものへ転換され」た。

「物質はもはや絶対(普遍)空間にも時間にも基礎づけられない。[中略]物質とその振る舞いこそが空間と時間という観念(そしてそれを必要とする観察者の主体)を仮設する。」

4.「しかし、国家をはじめとする近代の社会制度は、この解体されつつあった絶対空間、絶対時間こそを前提に、社会基盤を整備し、すべての事物、場所(土地)、財、人間のアイデンティティーを固定し測定しようとしてきた。」

「近代化とはむしろ、この絶対空間、絶対時間の無限延長性を現実的制度として整備しようという遅れたプロジェクトだった。」

5.岡崎は20世紀芸術においては「先験的な時間、空間の克服」が「基本的なプログラム」で、「その最終的な目標は、太陽に独占された時間を奪取すること」だったとし、それを示す象徴的な作品例として1913年に上演された、A.クルチョーヌィフ脚本、K.マレーヴィッチ美術の「太陽の征服」が挙げられる。そして「それから20年足らずの間に、原子核物理学は地球の天体的宿命を変更する可能性、つまり実際に太陽エネルギーをつくり出す可能性を実際に手に入れてしまう。」

しかしその時点で、ジョルジュ・バタイユは「『太陽を手に入れる』可能性こそ、人の存在そのものを分裂、解体させること、人という観念を確実に終わらせる力を持つだろうことを的確に見抜いていた。」

6.本章の最後はバックミンスター・フラーの次の言葉を引用して締めくくられている。
「自然は、われわれが安全に接近できる原子炉との最短距離を9200万マイル(すなわち太陽と地球との現在の距離)であるととっくに決定している。」

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